蛇の目ってなんぞや?!
 
  へびって?
「へび」を調べる 
- 蛇の遺物に見る民族の流れを探る -
 
第五章  へび民族 世界へ
 第四章 において  シュメール文明・エジプト文明で”へび”崇拝の思想が 花開いた事が理解できました。 そういった思想が日本にも入ってきた事が良く分かります。 
 この章では 日本に西から東に”へび”文化・思想が東漸(とうぜん)したと同じように シュメール文明・エジプト文明 を基点に 他の国・文化に”へび”文化・思想が伝わっていったのか調べてみたいと思います。

 
一、 ギリシャ (神話)
 ギリシャ神話の文学的に残っている最も古いものは ホメ-ロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』で、口承形式の神話のすべての神々を紀元前9世紀頃 記しています。 
 後の『神銃記(テオゴニア)』 ヘシオドスによって ゼオスを中心とした神々や英雄たちの関係や秩序を、体系的にの経緯をまとめ物語っている。


①アスクレピオス [Asklepios] (アスクレーピオス)
 『ギリシャ・ローマの医術の神。ラテン名アエスキュラピウス 
神アポロンの子とされていますがケイロンのもとで育てられ 医術を教わり死者を蘇らせる事が出来たため、ゼウスは人間が不死を得ることをおそれ 雷電で、彼を殺してしまいました。 アポロンの願いでゼウスはこれを星にし
 へびつかい座ができたという。
 
へびは回生と薬草を発見する力があると信じられ神聖な動物
とされているため
 杖に一匹のへびがまきついた姿でいる。』

以上 *72小学館 JAPONICA 大日本百科事典より

 杖にヘビの巻きついたモチーフは医の象徴として

 
「アスクレピオスの杖」(蛇杖)と呼ばれる。


 『アスクレピオス 150年頃 ローマ、カピトリーノ美術館
イタリア西岸のポルト・ダンツィオ(古代のアンティウム)で発見された。伝説によれば前3世紀初め、アスクレピオスは、ギリシャから蛇の姿で最初この土地に上陸したといわれる。』
 『アスクレピオス信仰の中心地はペロポネソスのエピダウロス、エーゲ海東端のコス島(古代最高の医者といわれるヒポクラテスはこの島で活躍した)、小アジアのペルガモンなどで、これらの聖地は同時に病気の療養所をも兼ねていたから、その遺跡からは病気の治癒を感謝して奉納された多数のアスクレピオスを刻んだ浮彫が出土している。』(*37 p116)


古代ギリシアでは 病院の事を”アスクラピア”といった。

*へびと  薬草と聞いて・・ 
 子供の頃 まんが「日本昔話」でみた話。
 「大蛇が人間を食べた後に 草を食べ 消化を助けているのをみた人間が マネをして草を食べたら 自分自身が溶けちゃった」

 という話を見た記憶があります。・・・・。  余談でしたでしょうか。





エピダウロス
 パレア・エピダウロス村の西、リグリオ村を中心にアスクレピオスの神域があり「エピダウロス」の遺跡がある。 
 その遺跡の中にはアスクレピオス神殿、北側にイオニア式の列柱館があり、前4世紀末~前3世紀を最盛期に治癒を求めてたくさんの参詣者が訪れました。 参詣者は列柱館で眠り夢の中で神に治療法を啓示してもらいました。
 
 神殿のアスクレピオス像は片手を蛇の頭の上にかざしていたようです。
 また『ギリシア費文集』第4巻にはアスクレピオス神が行ったさまざまな治癒の内容を刻した、エピダウロス出土の長大な碑文が収められていることからも、 ロシアの心霊治療みたいな事が行われていたのでしょうか? 治療の事を”手当て”ということからも興味深いですね。

WHO(世界保健機構)の紋章に アスクレピオス
WHOの旗。
蛇と杖のマークはギリシャ神話の医学神アスクレピウスに由来しています

紋章はWIKIより引用 

WHO神戸センター にメールにて申請
http://www.who.or.jp/indexj.html



日本の救急車 「スター・オブ・ライフ」
 医療活動の象徴、「スター・オブ・ライフ」にアスクレピオスを見る事ができました。ちょくちょく救急車も見かける事がありますが写真に撮る事ができたのはラッキーでした。


(10.05/06追記 
「へび調査隊」西三河資料館巡りと愛知こどもの国より)




病院のマークにも
浜松南病院
医療機関にもアスクレピオスの杖がマークとして使用されている事を知ってはいましたが
実際に見つけましたよ~~~。

「H」 HAMAMATHU 
「S」 SOUTH 
「H」 HOSPITAL 
ひそかに ブログなるものをはじめました。
http://janomette.blog8.fc2.com/blog-entry-5.html より



へびつかい座 に アスクレピオスの伝説が 
星になった アスクレピオス
いまいち 気の毒な絵は自作・・・。

 1930年に定められた星座の境界線に従うと,黄道がさそり座といて座の間でへびつかい座を通っているために,星座数が従来から1つ増えたと言う事で 13星座占いに入りました。

 へびつかい座を星座占いに入れたいきさつ等は、ここでは省略させていただきます。





②ヒュギエイア[Hygieia] (フュギエイア)
『140年頃 ロドス美術館 
アスクレピオスの娘(または妻)として、
 健康をつかさどる女神として信仰された。』(*37 - P116)


上記書籍ではフュギエイアとの表記でしたがヒュギエイアとの書かれ方のほうが多いようです。






③アポロン[Apollon] (アポローン)

写真はWIKI
 『アポロンの母レトがゼウスに愛されて子供を身ごもったとき、それを聞きつけたゼウスの妻ヘラはまたもや嫉妬の鬼と化し、レトが大地の上で子供を生むことを禁じた。レトは安住の地を求めて各地をさまよい歩いたが、ついに浮き島であったデロス島にある棕櫚の大樹の下でアポロンとアルテミスの双子の兄妹を生んだ。』 (*37 P52 14行目-22行目)

 アポロンの出生については上記のとおりでありますが、弓矢、音楽、予言、医術、家畜を司る神であるとともに、光明神の性格を持つことからヘーリオスと混同され太陽神ともされました。
 また、双子の兄妹アルテミスと共に「遠矢射るアポロン」として疫病神の性格を持ち、転じて医術の神としても信仰された。
 これらの性格から医神アスクレーピオスがアポローンの子とされる
 救急車のマークやへび使い座のルーツとしても(馴染みの有る?)アスクレピオスの 父であり医術の神だったのです。
 写真の彫刻にも月桂樹の木と”へび”。



デルポイ[Delphoi] 英:デルフィ 古名:ピュト
 コリントス湾の北岸パルナッソス山(2457m)南麓の急峻な斜面にアポロン神殿がある。 そのアポロン神殿を中心とする遺跡がデルポイである。

 古名『ピュト』とはガイアの子供である牝の大蛇ピュトンにちなんだもので、アポロンがこの神域を支配する前は、大地の母神ガイアを祀る神域であり、次いでその娘テミスが神託を行い、そして大蛇ピュトンがこの神託所を守っていた。

 
デルフィ アポロン神殿
*70 口絵P3
 
巫女ピュティア
 アポロンは予言を行うために「大地の裂け目」を探しデルポイの地に着き、アポロンの神託として巫女ピュティアの口を通じ告げることを委ねた。
 ピュティアは、神託の日に朝一番でカスタリアの泉で身を浄め、カッソティスの泉の水を飲みアポロン神殿地下のアデュトン(奥室)の「大地の裂け目」から沸き上がる蒸気を吸って憑依状態となりアポロンのお告げを口走った。
 ピュティアに選ばれるのは50歳以上の地元の農婦で選ばれた後は家族と離れて暮らし生涯アポロンに使えた。

 *37*70においてもピュティアという記述
 *71においては ピュートーン(Python)を大蛇、ピューティアー(Pythia)をデルポイの事としている。
 *WIKI「ピュートーン」ではピューティアー。
 *ネット上では なぜかシビラ・シビュラ(Sibylla )というかかれ方 巫女の意?もめにする。
 日本にもへびを使って神託を得る蛇巫がいたようであるが、 ピュティアとはギリシア版 蛇巫といえる。

 *注:「大地の裂け目」・・・実際は裂け目は無いらしく月桂樹と大麦の粉を聖なるかまどでいぶし煙に身を浸したようです。

世界のへそ ( オンファロス[omphalos] )
オンファロス  (デルフォイ美術館)

 ギリシア時代 ゼウス自らが治める世界の中心を探ろうと世界の両端から同時に聖鳥(鷲)を放ち二匹の鷲がデルポイの上空で交差し舞い降りた伝説から デルポイを「世界のへそ(オンファロス)」とし、世界の中心として信じられてきた。

 しかもWIKI「ピュートーン」によるとピュートーンはアポローン神殿の聖石オンパロスの下に葬られたらしい。
 なんと 世界の中心は大蛇ピュートーンの墓石か?
 
*注:オンファロス=オムパロス=オンパロス 
石に施された模様は『羊毛の房の網目模様が彫られている。これは、この石が聖なるものであることを示す印だった』*74p24

ピュティア祭 (ピューティア大祭)
 古代オリュンピア祭(*註1)と並ぶ大祭で、音楽の神でもあったアポロンにちなみ 音楽競演を。またオリュンピア祭と同様の運動競技、演劇競演が行われた。
 このピュティア祭の起源は 『大蛇ピュトンの母であるガイアをなだめるために、ピュトンの葬礼の儀としてのピュティア祭を創始』(*70 P123 49-51行目)
 優勝者には 月桂樹(*註2)の冠が与えられた。
紀元前582年 開催が始まったといわれる
前595~前590年 デルポイを支配下におさめようとする諸勢力の内、都市クリサが巡礼者に通行税を課したことから第一次神聖戦争が勃発
前590年 アテネ、テッサリア、シキュオンなどの勢力がクリサを降伏さす。アンフィクティオニアがデルポイを管轄 以後4年ごとにピュティア祭が再編
 
 その後 神殿は破壊と再編を繰り返す。
392年廃墟に にビザンティン帝国のテオドシウス帝がキリスト教を国教とし、異教崇拝の禁止令を発し衰退、デルポイは廃墟に。ピュティア祭も行われなくなる。


 1994年12月15日ベルリンにおいて国際デルポイ評議会が開かれる。
1997年 「第一回ジュニア・デルポイ競技」グルジアのトビリシで開催された。
2000年 「第一回近代デルポイ競技」モスクワで開催。
2003年 「第二回ジュニア・デルポイ競技」がドイツのデュッセルドルフで開催。
2005年 「第二回デルポイ競技」マレーシアのクチンで開催。
 
 以後 各地で開催される。

ピュティア祭 *註
 *註1:オリュンピア祭・・・近代オリンピックの由来ともなるオリュンピアで 4年に1度開催される競技大会。男神ゼウスを祀るため女人禁制であった。優勝者には野生のオリーブの小枝で作られた冠が与えられる。
 *註2:月桂樹・・・ 月桂樹はギリシア語でダプネ(ダフニ)の意でもあり、アポロンの聖木。
 アポロンがエロス(キュービット)の小さな弓を冷やかした事により、怒ったエロスは恋心をかきたてる矢をアポロンに、恋心を冷やす矢をダプネに打った。アポロンを嫌いでたまらなくなったダプネは必死で逃げ、ついに力尽き捕まりそうになったとき、ダプネの父(ぺネイオス)が月桂樹に変えた神話による。
 月桂樹は葉を乾燥させたものをローリエと呼び、民間伝承として、リューマチ、神経痛、食欲の増進、麻酔作用、肝機能強化などさまざまな薬効があるとされている。
 またアポロンは永遠の愛の証として月桂冠を永遠に身に着けている。といわれている。

 デルポイ(デルフィ)という名称は、アポロンが姿を変えたイルカ(ギリシア語で「デルフィス」)に由来する。といわれている。 
 これまで へび調査隊記
磐田市香りの博物館 (10.04.15)   
古代カルタゴとローマ展 (10.05.12)
で見てきた ベネチアングラスや柱の ”イルカ” なようで ”へび” のような装飾は
こういった背景 影響のものであったと推測するわけです。
アポロンが必ずしもへびを嫌ったわけでなく 大蛇ピュトンを手厚く葬ること、月桂冠(ウロボロスの思想)や へびの能力を理解したうえで ”へび”そのものの形状や影響力からデフォルメを加えていったのではないだろうかというのがわたくしの考えです。




④アテナ[Athana] (アテネ)註1
アテナ出生について
 『ゼウスと海神オケアノスの娘メティスとの娘。メティスがみごもったとき、地神ガイアはメティスからやがて生まれる息子がゼウスの支配を奪うであろうといったので、ゼウスはメティスを呑み込んだ。誕生のときがきたとき、プロメテウス、あるいはヘパイストスがゼウスの頭を斧で割ると、アテネが甲冑に身を固めた姿で、鬨の声をあげて生まれ出てきたという。』(*72第4巻アテネの貢2-10行目)
写真 「アテナ=パルテノス」 *72 第5巻 P763
 フェイディアス作の彫像のローマ時代の模刻  
  元来、先住民族の神でアクロポリスの城砦に戦いの神として祭れれていたことに由来し、ギリシア人も受け継いだ。
 怪物ゴルゴン(註2)の首が真ん中に付いたアイギスという神聖な武具(山羊皮の短い胸甲)の姿で描かれる。戦車や多くの武具の発明した女神であり、紡績、機織の神、国家の守護神、多産・豊穣の守り神とし、ローマではミネルバと同一視。

 メデューサを埋め込んだ武具を埋め込んでいる事(へびと関係のある神) 戦車などの武具の発明、知の神であることからもメソポタミアの神と関係が深いのではないだろうか。
 上記アテナ写真はローマ時代のものでありますが向かって右側に丸い盾とともに”へび”の彫刻も表されている。 
 この盾の裏の”へび”はエリクトニオス(”へび”と関係のある他の登場人物参照のこと)を表しているといわれている。



アテナの貢
 註1・・・*72第4巻ではアテナではなくアテネの貢にギリシアの重要な女神として掲載。*71ではアテーナー。 このHPでは著書を引用、参考する部分にはそのとおりに掲載。標準的にはアテナとしています。
 註2・・・ゴルゴン(ゴルゴーン)=メデューサ。 髪の毛が蛇で、目が合うと(あるいはその姿を見ると)石に変えてしまうと言われている。*71P80第二巻(Ⅳ)ではゴルゴーンという生まれた時からの老婆で一つ目、一つの歯の三姉妹として書かれている。不老不死でなかったメドゥーサがペルセウスによって首を切られ、アテーナーの盾に首を埋め込まれた。また 同著中、ゴルゴーンとアテーネーが美を競い合い、アテーナーによってメドゥーサの首は切り取られたとの主張も書かれている。
⑤テュポン[Typhon]  (テューポーン)
ゼウスとテュポンの戦い
 前540年~530年頃
     ミュンヘン、古代収集館
 ギリシャ神話の中では最も巨大で恐ろしい怪物。
頭は天にも届く巨体で、両手を広げれば 世界の東西の端から端にも達する。肩からは百の蛇の頭が生え、火を放つ目をもち、腿から上は人間と同じだが、腰から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形になっているという。[*37*wiki]







アポロンの貢でガイアの子供である牝の大蛇ピュトンを記しましたがピュトンが娘ならこちらのテュポンはガイアの息子。 ヘラがゼウスの浮気癖を懲らしめるためにクロノスから貰った卵から生まれた説、ヘラが生みピュトンが育てた説がある。 

[*71第1巻Ⅵ3][*71第2巻Ⅴ1]
ネメアーの獅子はヘーシオドスのギリシア神話によると母はエキドナ、父はその子オルトロスとされている。

 ゼウスとの戦いで女神達にだまされて「無常の果実」を食べさせられ敗走し、シチリア島に追い詰められエトナ山を胸の上に投げつけられ押しつぶされた。 
 この伝説をもとにエトナ山の火山がテュポンの吐く炎といわれている。
またテュポン(Typphon)は、英語の台風Typhoonの語源となってもいる。



⑥ギリシア神話 へび神様の系図
”へび”と関係のある他の登場人物
他に”へび”と関係のありそうな神話の登場人物
大蛇ピュトン
[Python]
上記アポロンの貢にも記しましたが、デルポイの神託所を守っていた大蛇。*70*71*wikiとも記載あり
デルピュネー
[Delphyne]
竜女。ゼウスがテューポーンを捕まえコーリュキオンの岩穴に押し込めたときの番人。*71
上半身女性下半身蛇。デルポイの神託所を守っていた大蛇ピュトンと血縁という説、このデルピュネーが神託所を守っていた説などがある。WIKIにて
ケクロプス[Kekrops] アッティカの初代の王である。大地(ガイア)から生まれ、姿は下半分が蛇、上半分が人間である。エジプト出身ともいわれる。*wiki
(アッティカはアテネを含む県(地域))
ペリクリュメノス
[Periklymenos]
ネーレウスとアムピーオンの娘クローリスから生まれた男。
ポセイドンによって姿を変える力を授かる。 獅子、、蜂蜜に変身する。

[*71P52第一巻Ⅸのあたり]
メラムプース
[Melampus]
メラムプースの家の前の蛇の棲む樫の木の穴があり、召使いどもが蛇を殺してしまう。メラムプースは蛇の子供を養い、蛇が大きくなった時にメラムプースの両耳を舐め清める。それ以来鳥の声が分かるようになり鳥から未来を教わり予言した。また犠牲の獣の臓腑による占いを習い、アポローンとも出会い並ぶ者ない預言者となる。

[*71P53第一巻Ⅸのあたり]
メドゥーサ
[Medusa]
プリアモスと他の女達の間に生まれた娘として
[*71P155第三巻12節のあたり]。

ステネロスはカパネウロの子、ペルセウスの子、アンドロゲオースの子、アイギュプトスの子の話あり。
[*71P84第二巻Ⅳ5のあたり]

ヘーシオドス『神統記』ではゴルゴーンをステンノー、エウリュアレー、メドゥーサからなる3姉妹。

ポルキュスとその妻ケートーの子で毒牙を持ち、髪の毛の代わりに生きている蛇が生えている。グライアイ3姉妹の姉でもある*wiki

有翼の馬ペガソースはメドゥーサとポセイドンから生まれている。[*71P79第二巻Ⅲ4のあたり]
ヒュドラー(水蛇
[Hydra]
九頭の巨体で真ん中の首は不死。レルネーの沼沢地に育ち、平原に出ては家畜や土地を荒らしていた。ヘーラクレースがピュートーの巫女にどこに住むべきか問い、エウリュステウスに命じられる10の仕事を行うように神託を得る。そのうちの2つ目の仕事としてヒュドラーを殺す事を命じられ、イオラーオスと協力したヘーラクレースに打たれる。[*71P90第二巻Ⅴ節2のあたり]
*wikiではテューポーンとエキドナの子
キマイラ[Chimaira] テューポーンとエキドナから生まれる。
獅子の頭、竜(蛇)の尾、第3番目の真ん中にある頭は山羊の形で、そこから火を吐き出した。土地を荒らし、家畜を悩ました。
イオバテースがベレロポンテースを殺すためにキマイラを退治するよう命じ、キマイラに殺されると考えた。が、逆にベレロポンテースに背から射倒される。
[*71P81第二巻Ⅲ節1のあたり]

元はヒッタイトで神聖視された季節を表す聖獣で、ライオンが春、山羊が夏、蛇が冬を象徴していた。他地域の聖獣がギリシアに伝わり怪物とされた点に於いてはスピンクスやカプリコルヌスと共通していると言える。*wiki
カドモス
[Kadmos]
ハルモニアー(妻)
[Harmonia]
テーバイを棄てエンケレイス人の所に就きイリュリアー人に襲われるが支配するに至る。一子イリュリオスを産んだ後、大蛇に変身し、ゼウスによってエーリュシオンの野に送りやられる。[*71P128第三巻5節4のあたり]

アッピアノスの説では、イリュリオスはポリュペーモスとガラテイアの子で、ガラース、ケレースと兄弟であり、それぞれイリュリア人、ガラテイア人、ケルト人の祖であるとされる*WIKI
エキドナ[Echidna] 上半身は美女で下半身は蛇という。『蝮の女』がその名の意味
エキドナとテューポーンから生まれた子は下記他に
ヒュドラー♂、金羊毛の番竜♂、クリュンヌ♀、デルピュネー♀、キマイラ
*wiki
*71
ラードーン[Ladon] エウリュステウスのヘラクレスに与えた第11番目の仕事として、百頭竜の守る黄金の林檎を持ってくるように命じている。エキドナとテューポーンから生まれた百頭竜と記されるが、ヘラクレスによって殺されるときにはと記される[*71p99第二巻5節11]

*wikiではラードーン。林檎園の黄金の林檎を守っていた、100の頭を持つ茶色いドラゴン。ヒュドラーの兄と記される。
ケルベロス
[Kerberos]
3つの犬の頭、竜の尾を持ち、背にはあらゆる種類の蛇の頭を持っている地獄の門番。
エウリュステウスのヘラクレスに与えた第12番目の仕事として、地獄からケルベロスを持ってくることを命じる。連れ出されたのち地獄に戻る。

[*71p102第二巻5節12][*71p131第三巻Ⅴ節8]
タロース[Talos] 建築士の弟子として天賦の才を持ち蛇の顎を鋸として使用
ダイダロスは弟子で甥であるタロースが自分を凌駕することを恐れ殺してしまう。
[*71p169第三巻15節8のあたり]
ラミア[Lamia] 海の神ポセイドーンの息子ベーロスとその母リビュエーとの間の娘。元々はリビアの女王であったが、その美貌でゼウスに見初められた。結果、ゼウスの妻ヘーラーの怒りを買い、ゼウスとの間に産まれた子供を全て殺され、自身も怪物に変えられてしまった。
ヘーラーの呪いはそれだけでは終わらず、子供を失った悲しみから常に逃れられないよう、眠りさえも奪われてしまった。ゼウスは彼女が休めるよう、目を取り外して眠れるようにしてやったが、子供がいる他の母親を羨むあまり、ラミアは他人の子供を食べるようになってしまった(他にも、生まれてきた子供を喰う呪いをかけられ、その後上半身が女性で下半身が蛇の怪物になったという話*wiki *71では未確認
エリクトニオス
[Erichthonios]
アテーナーが武器をつくる目的でヘーパイストスの所に赴いたことがきっかけで、ヘーパイストスはアテーナーの虜になってしまう。逃げる女神を追いかけ非常な苦労の後に交わろうとするが女神は応じず、彼ははやまって女神の脚に精液をかけてしまう。怒った女神が毛で拭きとり地に投げた。精種が大地に落ちたときにエリクトニオスが生まれる。
アテーナーは不死にしようと神々に秘して箱の中で赤子のエリクトニオスを大蛇に巻かせ育てる。[*71p163第三巻14節6]

「森を守る文明・支配する文明」著者: 安田喜憲では箱の中の赤子のエリクトニオスは半人半蛇であり、成人しても下半身が蛇のままで、アテネの王になり崇拝され、死後蛇になったと記している。*71*wikiに半人半蛇の記述は無い。ルネ・マルタン監修 『図説ギリシア・ローマ神話文化事典』 (原書房, 1997)には記述があるようです。


ギリシア神話の神 系図 

--蛇補足--
蛇神様の系図は個人的な解釈の偏りをなくす為と統一性と出すため、前8世紀ヘシオドス「神銃記(テオゴニア)」を出典とする小学館「大日本百科事典」の「ギリシア神話」の貢を主に、格神様を引いて作製。
*以下の数字は格神様の補足情報として掲載。「大日本百科事典」に記載の無いものはWikiなども参照しています。

*1 小学館「大日本百科事典」ギリシア神話
アテネで引くと海神オケアノスとメティスの娘。 ローマではミネルバと同一。筆:引地正俊氏
*2「アフロディテ」では海の泡(アフロス)から生まれる。また、ゼウスとディオネの娘。
”ウラノス”を引くと子クラノスから性器を切り落とされた時に生じた泡からアフロディテが生まれたとしている。
セム系イシュタル(アシュタルテ)に相当。
ローマでは植物育成の守り神ウェヌス(ヴィーナス)と同一視。筆:引地正俊氏
*3「アレス」トラキア地方の神であった。ローマではマルスと同一視。筆:引地正俊氏
*4「アルテミス」ゼウスとレトの娘。アポロの妹。
古くは先住民族の神で、月神セレネやヘカテと同一視。
ローマではディアナと同一視。筆:引地正俊氏
*5「アポロン」・・・ゼウスとレトの子。アルテミスと双子の兄弟。
もとは東方の小アジア・北方民族の神。筆:引地正俊氏
*6「ヘラ」・・・ゼウスの正妻であり姉。鍛冶のへパイストス、軍神アレス、お産の女神エイレイテュイア、青春の女神へべを産む
ローマではユノ(ジュノー)と同一視。筆:大竹敏雄
*7「ヘスティア」クロノスとレアの長女でゼウスの姉。
ローマではヴェスタと同一視。筆:大竹敏雄
*8「ヘルメス」ゼウスと巨人アトラスの娘マイアの子。
アルカディア中心の先住民族の信仰。女神アフロディアとの間にヘルマフロディスト。
ローマではメルクリウスと同一視。筆:引地正俊氏
*9「へパイストス」・・・ゼウスとヘラの子。最も美しい女神アフロディテを妻に。妻アフロディテと軍神アレスは密会。
ローマではウルカヌスと同一視。筆:大竹敏雄
*10「ディオニソス」・・・ゼウスとカドモス王の娘セメレの子。
元来トラキア地方の神で、牛の神、ヤギの神。
ローマではバッカス。筆:引地正俊氏
*11「デメテル」クロノスとレアの娘でゼウスの姉。ゼウスの間に娘ペルセポネをもうける。
イナンナの冥界くだりに似た神話あり。
ローマでは穀物の女神ケレスと同一視。筆:大竹敏雄
*12「ハデス」・・・クロノスとレアの息子。
デメテルの娘ペルセポネをさらい后に。番犬はケルペロス。
ローマではブルート、ディースと同一視。筆:大竹敏雄
*13「ポセイドン」・・・クロノスとレアの息子。正妻は大洋神ネレウスの娘アンフィトリテ、子供はトリトン、ロデー、ペンテシキメ。他の女性とにペガソス、オリオン。
ローマではネプトゥヌス(ネプチュン)。筆:引地正俊氏
*14「アスクレピオス」・・・ホメロスでは人間で医者とされているが、後の伝説でアポロの子とされる。筆:引地正俊氏
*15「ヒュギエイア」・・・*37 「ギリシャ神話 (神々の世界)」 著:松島道也 河出書房新社
*16「ケクロプス」・・・アッティカ(アテネを含む地)初代の王。上半身は人間、下半身は蛇。
*17「タルタロス」・・・アイテルとガイアの息子。後、ガイアと結ばれチュフォンとエキドナを生む筆:引地正俊氏
*18「エロス」・・・カオスから生じた結合力を持つ古い神。母アフロディテと父アレス、ヘルメス、ゼウスとの子とも言われている。 筆:引地正俊氏
*19「オケアノス」・・・ウラノスとガイアから生まれた妹のテチェスを妻とし、世界の河川3000の神、海河川の精(ニンフ)3000人の娘となるオケアニデスたちを生む。 筆:引地正俊氏
*20「テティス」・・・海の女神。アキレスの母。ネレウスの娘。人間のプティアペレウスと結婚する。筆:引地正俊氏
*21「メティス」・・・オケアノスと海の女神テティスの娘。ゼウスの最初の妻。
メティスがみごもったとき二番目の男子に王位を奪われると予言されメティスを飲み込んでしまう。のち、プロメテウス、あるいはへパイストスがゼウスの頭を割り武装したアテネが飛び出してきた。筆:大竹敏雄
*22 ウーラノスとガイアの息子でティーターンの一人 系譜上の存在で説話無。WIKI
*23「ヒュペリーオーン」・・・テイアーの夫で、ヘーリオス、セレーネー、エーオースの父でもある。一説にヒュペリーオーンの妻はアイトラーとも。バシレイアともいわれる。WIKI
*24「テミス」・・・ウラノスとガイアから生まれた娘。ゼウスの2番目の妻。ホライ、モイライ、プロメテウスの母。母ガイアから予言の術を受け継ぎ、デルフォイの信託所を持ち、アポロンにも術を授ける。”テミス”は”掟”の意。筆:大竹敏雄
*25「レア」・・・ウラノスとガイアから生まれクロノスの妻となる。6人の子を生む。レアの崇拝はクレタ島から始まり、ギリシア人によってキュベレやアグディスティスなどアジアの大地母神と同一視。ローマではオプスと同一視。筆:引地正俊氏
*26「ムネモシュー」・・・ウラノスとガイアから生まれた娘。
ゼウスとの間に9人のムーサ(ミューズ)たち、カリオペー、クレイオー、メルポメネー、エウテルペー、エラトー、テルプシコラー、ウーラニアー、タレイア、ポリュムニアーを生んだ。WIKI
*27「イーアペトス」・・・ウラノスとガイアから生まれた息子。
オーケアノスの娘であるクリュメネー、またはアシアーのあいだに、アトラース、プロメーテウス、エピメーテウス、メノイティオスを生む。wiki


ギリシャ まとめ

 ◎ギリシャ神話 アスクレピオスなどは名前こそ違うが、シュメールの医術をつかさどる蛇神”ニンアズ”の影響を受けているようである。
 ◎オリンポス十二神の内 主要な神 アポロン、アテネを筆頭にヘルメスと 三神が”へび”とかかわりのある神である。
 ◎地母神 大地の神である”ガイア”から 怪物という立場ではありますが、へびの子供達 テュポン、ピュトン、エキドナが産まれている。
 デルポイ(古名:ピュト)をガイア自身が受け持っていたことからも ガイア自身”へび神様”であったのでは。
 ◎月桂冠、オリーブ冠といった勝利のリースも何かしら”へび”と関わりがあるようだ。

ギリシアの貢
参考文献
*37 「ギリシャ神話 (神々の世界)」 著:松島道也 河出書房新社
*70 「古代ギリシア遺跡辞典」2004年発行
  著者:周藤芳幸、澤田典子 発行者:今泉弘勝
  発行所:㈱東京堂出版
*71 アポロドーロス「ギリシア神話」 1994年発行
  訳者:高津春繁 発行者:安江良介 発行所:㈱岩波書店
*72 「大日本百科事典 ジャポニカ」 
  発行者、編集者:相賀徹夫 発行所:㈱小学館
*74 「「知」のビジュアル百科18 古代ギリシア入門」
  著者:アン・ピアソン 訳監修者:豊田和二 協力:大英博物館 発行所:あすなろ書房

*アスクレピオス・ヒュギエイアとも 写真許可済み


*聖獣: アスクレピオスの杖の蛇  
http://bymn.pro.tok2.com/karakusa/egypt/asklepios.html
二、 エーゲ文明
ミノア文明 
前3650~前1070年頃 クレタ島で栄えた青銅器文明のことである。伝説上のミノス王にちなみ、ミノア文明ともよばれるが、クレタ文明と呼ばれる事もある。

蛇女神
蛇女神 前1600年~1500年頃
      イラクリオン(クレタ)美術館

クノッソス宮殿西翼の礼拝所から出土したテラコッタ製の小型像。胸をあらわにし、両手に蛇を握り頭上に小動物をのせている。おそらく女神または女祭司を表しており、万物の豊穣・多産をつかさどる地母神の系列に属するものに考えられている。


エーゲ文明は クレタ文明のなか エーゲ島で青銅器文明として栄えている。
 
エーゲ文明から出土したこの蛇女神は地母神としての性質を持っており シュメール文明の影響を受けているといえる。
 日本で言えば縄文時代中期紀元前5000~4000年頃の土偶のようなものであり、日本では相当早くへびを崇拝していた事が分かる。



2011年4月24日追記
蛇を飼う容器(イラクリオン博物館)
高さ50cm、テラコッタ*73
3500年前ということなので 蛇女神と同じ前1500年頃ミノア文明にあたります。ギリシア、クレタ島クノックス宮殿から出土。

*73「森を守る文明・支配する文明」
著:安田喜憲 発行所:PHP研究所 1997年発行

安田氏は上記蛇女神と同じくクノックス宮殿から出土した蛇をからだに巻きつけた大地母神。そして、この蛇を飼う容器から、 クノックス宮殿では蛇が飼われ蛇と共に儀礼を行う蛇巫女がいたことを記している。

三、 古代ローマ
古代ローマの歴史
 まず、古代ローマ とはいつの時代を言うか記しておく。
王政ローマ   紀元前753年 ロムルス王が建国
共和政ローマ  紀元前510年 地中海全域に及ぶ。元老院・政務官中心の政治
ローマ帝国   紀元前27年~395年〈東西ローマ分断)

 *東ローマ帝国(395~1453年)を含む言い方もするが ここでは大まかにここまでを古代ローマと呼ぶことにする。 あえて紀元前753年から 395年の古代ローマ時代とした理由は、東のコンスタンティヌス1世と西のリキニウスによって、313年ミラノ勅令によって キリスト教を認めたことによります。
それ以前は多様な信仰がなされていました。
 しかも『古代ローマ入門』より
『一般的に人々は、他人の信仰にあまり口出ししなかったが、キリスト教徒だけは例外だった。彼らキリスト教徒の信仰は、ローマの神々に供え物をする事を許さなかったので、ローマ社会における彼らは、神々を怒らせてローマを危機に陥れようとする危険な無神論者とみなされた。その結果、キリスト教徒はしばしば、ローマ人たちから迫害を受ける事になった。』(p. 50 9行目 - 15行目 )とあるように キリスト教徒は迫害を受けていましたがミラノ勅令をきっかけに 後のテオドシウス1世の時代380年 ついにキリスト教が国教となったことによります。
 迫害されていた頃のキリスト教はまだ伝承で解釈に統一感が無かったものが 西ローマで、西方教会・東ローマで正教会と発展。 

①古代ローマの神
Ⅰ・ メルクリウス (Mercurius)
ローマ神話に登場する商業の神 
      英語読みマーキュリー(Mercury)


『のちにギリシャ神話 ヘルメスと同一視され、神々の使者、科学・商業・盗人・旅人の守り神とし、翼のある帽子とサンダルを身につけ、2匹の蛇が巻き付いた杖(カドゥケウス)を持った若者の姿で描かれるようになった。』


 ギリシャ神話で ヘルメス神が 2匹の蛇の喧嘩を仲裁したことにより
2匹の蛇が杖に巻きついた(カドゥケウス)を持っている。



◎ヘルメスと水銀の記号

 
右イラストは
週間朝日百科 世界の歴史20 E-115より
左記記号の上段は、数ある水銀記号からの抜粋。
下段は 七つの惑星と、七金属の図の関係です(自作)。

水銀の代表的な記号は、(4元素)を支配する(太陽)と、その上にある月(変化の象徴)によって構成される。
  (4元素とは火・空気・水・土を表す。)
[]の記号が二匹の蛇が巻きついたものと連想されている

 3世紀頃の書物に 水星=水銀と見られるようになり10世紀前後のアラビア錬金術「金属の精」と華々しく登場する。


水銀がヘルメス(商業の神)と結び付けられた理由に

 ◎すべての金属は水銀と硫黄から成り立ち、この配合で金属の種類が決まるるというゲーバーの金属理論が出来上がったため。
  ゲーバーは錬金術での話で実在することもわかっておらず、硫酸を見つけたとという話もありますが別人とされています。
  結局これら5元素の組み合わせですべての金属を作るといった錬金術は成り立たなかったわけですが、 エジプトの哲学者・賢者からの流れを継ぐこの理論が後世にも生きたと言われています。



 ◎流動性と変容性(金・銀をも溶かしてアマルガムとする)
 東大寺の大仏も 金アマルガムを塗った後に水銀を加熱・蒸発させて金メッキをかけた事は有名ですね。 大仏を造る際 発生した水銀により疫病が広まったといわれています。



◎マーキュクロム液 の医学的治療効果(消毒・殺菌・新陳代謝促進作用)
 我が家の民間信仰?では、「つばをつけときゃ治る!!」という父からの口承によって多少の擦り傷・包丁傷も数時間のばんそう膏もしくは、海苔を貼るのみで自然治癒という方法が主なため、いまだに使い切っていない・・・。ただこの赤チンの殺菌力は絶大! ばんそう膏が貼れない広範囲も 塗れば治りの早かったことを記憶する。
  我が家にいまだにあった 通称『赤チン』 子供の頃 よくマーキュロクロム液を塗ったものです。

 水銀の医学的治療効果がメルクリウス(ヘルメス)と関連付けられた可能性は大きいですね。




◎商業の神 としての メルクリウス
浜松商業高等学校 明治32年創立
校章の由来
Hamamatsu Commercialの頭文字CとHを図案化されました Cの書き出しとHの上下が開いているのは蛇の口を表します。ギリシア 神話のヘルメース神(ローマ神話ではマーキュリ神)のもつ杖には2匹 の蛇がからんでいたといわれます。 ヘルメース神はゼウスの子として 生まれ、作物、牧畜、商業、音楽、競技、幸運、雄弁等を司り、蛇は商業神を表します。明治32年、本校が元城町齢松寺境内に開校以来これ を用い、戦争中一時変更はありましたが、現在まで用いられています。

 *なるほど 商業の神ということで ここにつながっているんですね。 そういえば入学式のとき 校章の意味を伺った記憶がなんとなく・・・・。そして学生証にも由来の掲載があったと思います。
 上記校章は十数年前寄付をしたときにいただいた皮のバックに付いていた校章です。学生服に付ける校章も同様のデザインです。
 校章の説明はHPよりコピペさせていただきました。(メールにて連絡済)



 『県立浜松商業高等学校』 (静岡県) 
  http://www.shizuoka-c.ed.jp/hamamatsu-ch/ 


一橋大学
http://www.hit-u.ac.jp/index.html
(旧東京商科大学) 
  明治8年8月創立
兼松講堂
 正面の校章
入学式の時 資料が入っていたビニール袋
(*注意:入学したのはわたくし!ではない・・。)

 提供は、妹のお知り合いの”きょうちゃん”でした。
貴重な資料をありがとうございます。
 へび調査隊に入りたいかもしれませんね。



兼松講堂・・・㈱兼松商店(現:兼松株式会社)が、 創業者・兼松房治郎の遺訓に基づいて、寄贈した工費を基に建てられました。
校章の由来
 一橋大学の校章「マーキュリー」は、ローマ神話の商業、学術などの神メルクリウス Mercurius(英語名マーキュリー Mercury、ギリシア神話のヘルメス Hermes に対応)の杖を図案化したものです。 2匹の蛇が巻き付き、頂には羽ばたく翼が付いています。 蛇は英知をあらわし、常に蛇のように聡く世界の動きに敏感であることを、また翼は世界に天翔け五大州に雄飛することを意味しています。
 
 一般の商業学校とは区別される「高等」商業学校の特別な地位を示す Commercial College の頭文字C・Cが添えられています。

              一橋大学の校章「マーキュリー」の由来展 (附属図書館)

 商業学校の頂点として目指したいと思ったことがありますが ・・・。
 ハードルの高さにあきらめるのも早かった。
 
 本来なら最も古い商業学校として先に一橋大学を掲載すべきかもしれませんが母校を優先させました。

 次に日本の大学で商学部・経営学部・経済学部・商経学部を有する大学 と、北は北海道から南の沖縄まで各都道府県の、商業高等学校、または全国商業高等学校長協会及び財団法人全国商業高等学校協会会員校、商業系の学科・専攻・コースを有する高等学校 合計743校 の校章にどの程度メルクリウス(マーキュリー・ヘルメス)の校章が使用されているか 調べてみました。

大学の学章・シンボルイメージ における メルクリウス
 学部の重複あるものの、国公立3大学(小樽商科大学・一橋大学・大阪市立大学)と私立(専修大学)の4大学のみにメルクリウスを見ることができました。(見落としていたらすみません。)



高校の校章 における メルクリウス
(クリックで、校名・校章由来・詳細)
 
北海道・東北(青森・岩手・宮城・秋田・山形・福島)
関東(茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・東京・神奈川)
北陸(新潟・富山・石川・福井)・東海(山梨・長野・岐阜・静岡・愛知)
近畿(三重・滋賀・京都・大阪・兵庫・奈良・和歌山)
中国(鳥取・島根・岡山・広島・山口)
四国(徳島・香川・愛媛・高知)
九州(福岡・佐賀・長崎・熊本・大分・宮崎・鹿児島)・沖縄
(クリックで、校名・校章由来・詳細)




県名
メルクリウス
の校章
② 商高数
WIKI
掲載校数
①÷② ①÷③
北海道 5 19 50 26% 10%
青森県 3 5 13 60% 23%
岩手県 2 4 19 50% 10%
宮城県 1 7 16 14% 6%
秋田県 2 3 9 66% 22%
山形県 1 3 8 33% 12%
福島県 2 7 16 28% 12%
茨城県 2 5 17 40% 11%
栃木県 1 3 16 33% 6%
群馬県 5 8 17 62% 29%
埼玉県 3(蛇1含まず) 7 21 42% 14%
千葉県 5 6 21 83% 23%
東京都 3 11 29 27% 10%
神奈川 1 5 14 20% 7%
新潟県 1 6 8 16% 12%
富山県 1 2 13 50% 7%
石川県 0 4 8 0 0
福井県 1 2 10 50% 10%
山梨県 2 2 7 100% 28%
長野県 2 8 14 25% 14%
岐阜県 2 8 19 25% 10%
静岡県 3 9 35 33% 8%
愛知県 5 11 39 45% 12%
三重県 4 5 13 80% 30%
滋賀県 0 2 5 0 0
京都府 0 0 17 0 0
大阪府 4 9 21 44% 21%
兵庫県 1 5 25 20% 4%
奈良県 1 3 4 33% 25%
和歌山県 1 2 6 50% 16%
鳥取県 0 1 7 0 0
島根県 0 3 7 0 0
岡山県 1 6 20 16% 5%
広島県 3 6 20 50% 15%
山口県 1 7 16 14% 6%
徳島県 2 4 9 50% 22%
香川県 0 2 8 0 0
愛媛県 0 2 16 0 0
高知県 0 2 6 0 0
福岡県 2 6 25 33% 8%
佐賀県 2 5 9 40% 22%
長崎県 1 6 13 16% 7%
熊本県 0 2 17 0 0
大分県 1 4 13 25% 7%
宮崎県 2 6 17 33% 18%
鹿児島県 1 3 21 33% 4%
沖縄県 1 7 9 14% 11%
全体 81 243 743 33% 11%
注意: 商業高校・商業科含む高校数・・・日本の商業高等学校一覧より全校 (WIKIより)
商業高校・・・学校名に「商」とある高校



◎商業の神 としての メルクリウス 感想
 今回たまたま母校の校章がへびだった事を思い出し、他校や大学ではどうなんだろうといった好奇心が沸いてきました。
 東海地方のみ調べる程度の予定だったものが全国の商業高校・商業科を含む高等学校すべてのホームページに目を通すことになってしまったのでした。

 
「あほだよ。ほんと あほ!」「ひまじん!」

 といった声が聞こえてきそうですが、自分でも何やってるんだろうと思いながら暇を見てはHPの閲覧をするのでした・・・。

 三重県・山梨県で、商業校の100%がメルクリウスの校章を使っている。
 三重県の商業と校名に付く高校は五校あり、そのうち四校はメルクリウスが使用されている。残り1校は、宇治山田商業高校で、ネット上に掲載がなかったため電話にて問い合わせてみたところ現在の校章にメルクリウスは無いとの事でした。再編を繰り返し当時の在校生の公募により決定した校章との事です。三重県でもっとも伝統ある高校ですので創立当初の校章にはおそらくメルクリウスがあったのではと勝手に考える。
 人口も愛知県は4番目、静岡も10番目でありますが、商業科の数が関東・近畿と比べても多い。
 東海地方は、全国と比べ差があるのだろうか? といった疑問が全国にまで調査を広げるに至った理由です。
 
 日本において商人は平安時代中期以降とされていますが、 商人が権力を強めることを恐れ『座』という統制のもと管理されていたものと思われます。
 その商人を解放したのが 『楽市楽座』でおなじみの織田信長であります。商人から税をとらず自由に商売をさせたのです。そして豊臣秀吉のころには『座』というものもなくなります。(商人つながりで
北京オリンピック 玉壁も見て欲しいなぁ)

 よってこの東海地方から商人が羽ばたいていったということがいえるのです。
 商人と言って思いつく商人にどういった方々を思い出すでしょうか?
 まず思いつくのが近江商人・日野商人・伊勢商人。日野商人はなんと世界に誇れる複式簿記を考案したのです。
 (わたくしも商業校を卒業して何が良かったかって、簿記の習得ができたことですね~~。毎年、仕訳だけでも2000行ほどあるものを自作したエクセル会計処理で、仕訳入力のみでB/S・P/L・決算報告書等までボタンひとつです。)

 そういった 尊敬する商人ゆかりの地にはメルクリウスの魂が根付いているのでは?
と淡い期待を抱き、調査を広めてしまったのでした。



 残念ながら滋賀県(近江商人)は『0』でした・・・。
   「なんで~~。」
 大阪商人(あきんど)は? 
   「まずまずじゃ。」
 越前屋(福井県)・越後屋(新潟県)は?
   「おぬしもワルよの~~。って、時代劇じゃ定番のせりふ。」
   「う~~ん。いまいち、それほどないね。」 
 博多商人・江戸商人は~~?

 桔梗屋は? 
   「何県じゃ?」

 それからそれから へびと関係の深い都道府県。
 H20年に「へび調査隊」で調査した群馬県は? 
   「おお~~。62% さすが へびセンターの土地柄!!」

 「ええ~~い。全国いっちゃお~~。 その前に大学も~~。
   って。」 
   ・・・・・・・・・・・・  けっこうシンドイ  σ(^_^;)アセアセ...    ・・・・・・」


 いろいろな校章を見て まとめ。
 
①形状について
 メリクリウスが採用されている校章のほとんどがカドュケウス(羽の杖に二匹のへびが巻きついている)形式であること。
 これは、明治8年と、もっとも古くに創立した一橋大学の学章に
(なら)っての事だと言うことが各高校の由来でも解ります。
 一橋大学が、マーキュリーを校章とした経緯の詳細は一橋大学の校章の由来をご覧頂くのが一番ですが、
「外人教師アーサー・マーシャル(ベルギー)と教頭成瀬隆蔵(静岡出身)の発案によって、各高校の由来に見られるようにメリクリウスの意味するところから、明治20年10月の高等商業学校への昇格の際に制定」されたようです。

 羽のみ。杖のみ。に自校のイニシャルをつけるものも見受けら、小樽商科大学、三重県立上野商業のように翼を表すことでメリクリウスを表現する事もあります。
愛知県立春日井商業さんの校章(右)も翼のようなものがあるので電話で確認させていただいたところ 校章の由来に記させていただきましたがメルクリウスでした。
 (担当の先生が浜松出身ということで非常に好意的にご指導いただくことができました。ありがとうございます。)
 
 逆に羽があるからメルクリウスと思ってはいけません。
 例えば

『愛知県立成章高等学校』  明治34年創立
http://www.seisho-h.aichi-c.ed.jp/syokai.html
校章の由来
羽は「鷹の渡り」で地域的なもの (20.1/14電話にて確認)
 海の近くの学校の校章では「カモメ」と言うパターンも多くありました。
 下記はメルクリウスか!! と思ったら「鶴」 といった校章です。

『長崎県立長崎南高等学校』  
http://www1.odn.ne.jp/minami/index.htm
校章の由来
長崎港は鶴の港と呼ばれている。その鶴を頭において本校が長崎の丘の上に立つことを示し、鶴の羽ばたきとくちばしと足で「南」をかたどるとともに若さと逞しさを表現している。
 
 変わった形状では
 冒頭にも掲載しています、浜松商業高校です。メルクリウスのへびを「H」と「C」のイニシャルに閉じ込めています。数あるメルクリウスの校章の中でここまで簡素化しているのはココのみです。

 
 右は名古屋市立名古屋商業の校章ですが、
 浜松商業の形状と非常に似ているので電話で確認したのですが「A」と「C」のイニシャルで「へびではない。」とはっきり伺いました。

 浜松商業はじめ数校に、違った形式は見られるものの おおむね、カドュケウスの杖の形状であるということが確認できました。
  

②全国の分布状況から
 メリクリウスの校章と商業高校数・全国の商業科を含む高校との割合を表にまとめてみました。数が少ないため極端なパーセンテージ(切り捨て)になったことはいなめません。

 ◎四国・山陰地方は、人口の問題もあると思いますが商業校自体が少ない。
 ◎京都・奈良・和歌山・滋賀と近畿地方も仏教の関係?なのでしょうかメルクリウスだけでなく商業校も少ない。
 ◎全般的に中部地方以北にメルクリウスの校章を採用していることが多いように感じる。

といった傾向があるのでは。といった程度です。

 また そもそも全体に占めるメルクリウスの割合は 商業校中三分の一・全体では一割と言う結果ですのでこの表から 地域にみるへび民族の流れ(商業=へびといった思想) 的なものを考えるのは難しいと思いますが、 広く日本全土において へびは商業と密接に関わっている。ということがメルクリウスを通しても浸透していることがわかります。




③メルクリウスの校章 時代的背景
 時代背景も一橋大学の校章由来・ 校章制定の経緯(一橋大学の校章「マーキュリー」の由来) よりご覧いただけたらご理解いただけるものと思います。

 県立広島商業高等学校 ・一橋大学 の校章の由来に見られるように 第二次世界大戦末期になると 敵国の言葉を使うことができなくなります。野球の「ストライク」が「よし一本」、ボールが「駄目」といった呼び方になります。それと同時にメルクリウスを校章にすることに対し弾圧が強まりました。 それに対して県立広島商業の校章の経緯は解り易く非常にありがたい資料といえます。
 弾圧にひるまず「輝く伝統と国際的栄誉に輝くマーキュリーに優るものがどうして生れよう」とマーキュリーの学章を貫いた一橋大学には感服いたします。
 先に掲載した長崎県立長崎南高等学校・浜松商業や、他のメルクリウスっぽい校章もこういった戦時中の弾圧から形・呼び方を変えてきたのではと推測するしだいです。

 また、商学部・経営学部等のある大学を調べてみたのですが多くの大学が以前の学章から、シンボルマーク(ロゴマーク)といったマークに変わっており調査が不十分といわざるおれません。
 日本で初めて経営学部を設置した神戸大学・私学初の商学部を設置した明治大学を例に見てみたいと思います。

シンボルマーク 学旗より
「神戸大学」
ロゴマークは創立百周年を機に平成14年作成
学旗図は昭和24年制定。
シンボルマーク 明治36年 現在
「明治大学」創立120周年を機に平成13年作成
 といった例のように グローバル化に伴いシンボルマークを作成する大学がほとんどで過去の学章を調べきることができませんでした。 
 ただ、 大学の学章では 『大』『学』の漢字を学章とするところが多いようで、メルクリウスの学章は、先に調べた四大学のみではないかと思われます。
 時代を経るにつれシンバルマークのほうが学章として扱われるようになるのかもしれませんね。


④考察
 今回半年がかりで 大学も含め七百数十校というHPを調べて思うこと。

 一橋大学を始め戦時中 メルクリウスの使用がとがめられても、この学章・校章を守り続けたのは何故か? 日本の商売の神様 大黒天・弁財天・恵比寿様 そういった発想はわかなかったのだろうか? ソロバンの校章はありましたが 「くまで」・「小判」・「打ち出の小槌」・「福耳」・「ねずみ」を図案化することは無かったのだろうか?
 とちょっとした疑問が沸いて来たりします。

 わたくしにとってメルクリウスは 『メルク様』『へび神様』といったイメージですが
二匹のへびが巻き付いている図は リアルなものも多く、苦手な人には気持ち悪いといった印象を与えるようにも思います。

 それでもこのメルクリウスのマークが愛されてきた その根底にあるものは、やはり 先に見てきたように思想や民族の流れのようなものがあったのではないでしょうか。
 このギリシャ神話のメリクリウスの発想 「翼」と「へび」も、
 ◎ペルシャの紋章 有翼日輪につながるものがあると推測します。
   (詳細は 三、ペルシャ帝国のヘビ  徳川家康 羊歯印 )
 ◎また エジプト文明までさかのぼった時に 上エジプト(ハゲワシ)と下エジプト(へび)とで統一国家ができたことの伝説が メルクリウスを生んだと考えるのはいかがでしょうか。 (四、エジプト文明 のへび ココではエジプトとへびの関連性を)
 
 
 そして、メルクリウスの意匠にだけとらわれるのでなく、その中身・本質にも注目すべきです。
 商業学校は 一世紀という長きにわたる学校も多く 各学校にも校風というものが特別なものとしてあります。
 校是にもよく掲げられる『
士魂商才(しこんしょうさい)』もとを「和魂漢才」と言う言葉があります。

 百貨店「三越」創業者日比翁助(ひびおうすけ)の言葉でいえば
 「武士のような”信義”を大切にする心(魂)で、才知ある商売をし世の中に貢献する。」と言う意味であります。 
 そういった思いから「日本橋 三越本店」の正面にもメルクリウスの像があるわけです。

 また新潟県立新潟商業の校章由来には、
「商業の道は昔も今も、ただ自分自身の利益ばかりを追うことは許されず、消費者の利益や社会全体の利益との調和が図られてこそ、経済活動を営む者(企業)にとって真の繁栄が約束されていることを校章は教えている。
 と記されているように商人の魂をメルクリウスに重ねているようだ。

 わたくしの母校もよく ”浜商魂” という言葉を使用していたが、HPを閲覧する中でしばしば”商魂”という文字を見ることができました。そういったメルクリウスの商人魂 利潤を追うだけでなく お客様のための商売をすることを いまいちど考えていかなくてはならない。
 この精神は商人だけでなく ビジネスマンにも公務員にも政治家にも製造業の方もあてはめて考えることができる精神といえる。 そういった精神で物事をすることが 永く愛される秘訣であり、メルクリウスのように 何世紀も愛され敬われてきた理由であると推測する。

(H21.2.5)


*調査方法
 ネットによるホームページの閲覧が主になり、校章が掲載されてなく校章にメリクリウスが意味する可能性がある場合は、公式ホームページ以外に複数検索し調べています。また、可能性の高そうな場合は直接電話においても伺っております。
 基本的に公式ホームページによる調査ですので漏れがあった場合は申し訳ありません。(また、ココもメルクリウスだよ~~。といった情報もお待ちしております。)


*当HPでは、引用を除いて「マーキュリー」「メリクリウス」「ヘルメス」を『メルクリウス』と
 メルクリウスの杖も『カドュケウス』と統一表記しています。
*都道府県の分類は日本の商業高校(WIKI) 参照

参考サイト様
各 ”商”関係高校様 / ”商”関係大学様 大学は重複あり

商学部を置く日本の大学(WIKI)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E5%AD%A6%E9%83%A8
国公立3大学 私立27大学 

経営学部を置く大学(WIKI)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E5%96%B6%E5%AD%A6%E9%83%A8
国公立3大学 私立69大学

経済学部を置く大学(WIKI)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E9%83%A8
国公立37大学 私立92大学

商経学部を置く大学(WIKI)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E7%B5%8C%E5%AD%A6%E9%83%A8
12大学 商経学部から経済学部・商学部等へと改組あり。

日本の商業高校(WIKI)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%95%86%
E6%A5%AD%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7






Ⅱ・ ヘルマヌピス (エジプト・アヌピス神)  の杖
犬の頭を持つ、エジプトのアヌピス神。
ローマ式の服装をしている。この神はギリシアのヘルメスと同一視され、ヘルマヌピスと呼ばれることもあった。*39


*39 写真・説明文 p.44
『図説 古代ローマ文化誌』 1996年
著者:チャールズ・フリーマン 監訳者:小林雅夫
訳者:上田和子・野中春菜  原書房

 『死者の国(冥界)への案内人
ヘルメスは死者の霊魂を現世から地下の冥界に案内する役目を持っていた。したがって彼は葬祭の儀式とは関係が深く、ヘルメスの姿は墓地に置かれた白地レキュトス(葬祭用の香油壷)や浮彫などに数多く描かれた。古代ギリシャではタナトス(死)とヒュノプス(眠り)の兄弟が死者の遺体を運ぶと信じられていたから、ヘルメスとともにこの二人の姿が表されることは珍しくない。』(*37 - P97)
 
*37「ギリシャ神話 (神々の世界)」 著:松島道也 河出書房新社 p.97



 『アヌピス神は エジプトの中でも比較的に古い時期から崇拝されていた神で 死者の神であり、犬またはジャッカルの頭部を持つ半獣もしくはジャッカルそのものの姿で描かれた。これは古代エジプトにおいて、死肉を求めて墓場の周囲を徘徊する犬またはジャッカルが死者を守っていると考えられたからである』 WIKI



ヘルメスについても アスクレピオスを参照にさせていただいたサイトで詳しく掲載されていますので ご参照ください。
「聖獣:ヘルメスの杖の蛇」
http://bymn.pro.tok2.com/karakusa/egypt/hermes.html


ちなみにガンダム世代の私としては ガンダムWのメリクリウスとの
関係を調べてみましたが 
尾形光琳 風神雷神図屏風の 風神・雷神をデザインしているようで
蛇との関係はなさそうです・・・・。





Ⅲ・ 創造の神 サバジオス
『創造の神サバジオス
サバジオスの起源はトラキアだが、まずギリシャへ伝えられ、その後帝国中に広まった。サバジオスは、バッコスやユピテルと同一視されることがあった。サバジオスのシンボルは蛇で、入信者は入信儀礼の間胸に蛇を巻きつけるのだ。サバジオスを表すシンボルとしてもっともよく知られているのは、キリスト教会が祝福の際に採用したのと同じポーズで、2本の指と親指を立てた手である。その手には何も描かれていない場合もあったが、サバジオス自身かシンボルである蛇か、もしくは洞窟の中の母子の姿がよく描かれていた。』 (*39 p.98 20行目-36行目)

*39『図説 古代ローマ文化誌』 1996年
著者:チャールズ・フリーマン 監訳者:小林雅夫
訳者:上田和子・野中春菜  原書房
補足 
トラキア

  それでは サバジオスの起源トラキアはどのような歴史を経ていたのでしょうか。

 トラキアはバルカン半島(イタリアより東、黒海の西の半島)東部 現在のトルコ(ヨーロッパ部分)・ギリシャ北東・ブルガリア南東部に位置する。 
 
 前6世紀以前 トラキア人として独自の文化・国家
 前6世紀頃  古代ギリシャ時代より ギリシャ人の殖民都市が建設される。
 前6世紀    ペルシャアケメネス朝の支配
 前4世紀    西のマケドニアの支配
 その後     ローマ帝国・東ローマ帝国の支配を受けている。


トラキア人
  トラキア人は 古学的には多数の精巧な金製品をはじめとする遺物・遺跡。インド・ヨーロッパ語族に属するトラキア語を話した事が知られています。
 有史以前はあまり資料が無く明確でないものの ブルガリアで、紀元前3000年頃の墓が見つかっていることからも 青銅器時代初期の原インド・ヨーロッパ民族が 新石器時代のヨーロッパ先住民族を征服合した民族ではないかといわれています。
 フリギア人・アルメニア人と深くかかわりがあった。

 先に見てきた ペルシャ語がインド・ヨーロッパ語族であり母音を表記しない文字を使っていたエジプト人と共通の面があり 関連性があったかどうかは調査中。

 ローマの信者たちはサバジオスを全宇宙の創造神とみなしていたのです。

◎ ギリシャ神話の サバジオス
 「ギリシャ神話では プリュギア(フリギア)の神 ゼウスとベルセポネの子。」とされている。
 *40『西洋神名辞典』 1999年  著者:山北篤  新紀元社(p.236)

 ちなみにベルセポネーは、冥府の王ハーデースに目を付けられ連れ去られて妻となった冥界の女王。
地上に戻る際ハーデースが渡した12粒の柘榴の内4粒を食べてしまい、1年の3分の1を冥界で生活する事になる。このことによって四季が生まれ春の女神ともされている。
◎ ヤーヴエ・サバオト と フリギアのサバジオス
 パレスチナにあった王国 イスラエル王国が前八世紀アッシリアに・ユダ王国は紀元前六世紀初めにバビロニアにそれぞれ侵攻を受け、生き残ったユダヤ人の大部分がメソポタミアに送られる。
 その後紀元前一世紀には、ローマ帝国とペルシャ帝国にディアスポラ(パレスチナから離散)として数百万人に上るユダヤ人がいて特権的地位を享受するようになること。そして、アラム語とギリシャ語を身につけ哲学的・宗教的にも影響を与えていたようであること。そういったことを前置きし、

『キリスト教の搖籃期』
著者:エチエンヌ・トロクメ 加藤隆   新教出版社 発行年月1998年8月 (*41 p18 4行目 ― 10行目)には以下のように書かれている。
 『メソポタミアのユダヤ教は、バビロニアの宗教の影響を受け (創造物語、占星術の諸テーマなど)、その後、イランの宗教のテーマのいくつかも採り入れられた (二元論、最後の審判、死者の復活など)。イランの宗教からの諸テーマは、キリスト紀元直前の時期のクムランやパレスチナのファリサイ派において、その存在が認められる。更に、さまざまな混清宗教的形態がシナゴーグの周辺のあちこちに現れるようになる。紀元前二世紀末以降に小アジアの一部のユダヤ人がフリギアの神サバジオスをヤーヴエ・サバオト〔「いと高き者ヤーヴエ」〕と同一視していたことは、この種の現象のもっとも顕著な例の一つである。』*41
 ユダヤ人が周辺の文化や言語様々なものを吸収していったことについての文と思われますが 
 一部のユダヤ人がフリギアの神サバジオスをヤーヴエ・サバオト〔「いと高き者ヤーヴエ」〕と同一視されているのは驚きです。 確かにサバジオスとサバオトって発音が似ています。  同一視させられる何かしら共通点があったと言う事でしょう。
 
そして、一部のユダヤ人の思想が いづれは ローマ帝国キリスト教の創造の神としてまで高められていったという事が言えるのだと思います。


 ちなみにヤーヴエ・サバオトはユダヤ教では万軍の主を意味する神格 のようです。
ヤーヴエはYHVHと表し ヤハヴェ・アドナイ・主・エホバ・ヤハウェ・エル・エロヒム・神とも表される。
◎ お酒としての サバジオス
 サバジオスは山の神 カイベレに対して、空の神としてまた豊穣の神・お酒の神として崇拝されていました。 
②古代ローマ人の生活
Ⅰ・ 家庭の守護神としての へび
◎ へびの精霊
頭の部分に細長いこぶのようなものがついている
(おそらくブロンズ製)

住まいにはそれぞれ守護霊が祭られていたが、下の社(やしろ)にも描かれているように、のぎ(ひげのようなもの)をつけたヘビの姿であらわされた。
 (*42 - P23)


◎一家の社(ララリウム)

ポンペイの家から発掘された一家の社は、小さな神殿をかたどったもの。中央に描かれているのが守護神ゲニウス、両脇にラール神、足元にはへびが描かれている。 (*42 - P23)
*上記写真
Aldus Archive/Syndication International
*左記写真
British Museum
 

ララリウムとは日本でいう「神棚」のことです
下記サイトでも へびの描かれたララリウムが。
http://www.japandesign.ne.jp/HTM/italia2001/report/0110/index.html(世界遺産ボンベイ展)
「バッカスとヴェスヴィオ山」 (フレスコ画 140 x 101cm)
ナポリ国立考古学博物館 ポンペイ出土 68-79年/第4様式



 ローマ人の多くは信仰神をもち、ギリシャ神話のヘラクレス(後のオリュンポス)・ワインの神ローマ神話のバッコス(ギリシャ神話のディオニュソス)・ローマ神話のウェヌス〈日本でいうヴィーナス・ギリシャ神話のアプロディア) をララリウム(神棚)として祭っていた。「知」のビジュアル百科 9 『古代ローマ入門』 著サイモン・ジェイムズ日本語版監修者 阪本 浩   あすなろ書房  2004年でも 『特に、家を災いから守ってくれる神々や精霊を祭っていた。家々には祭壇があって、家族がそろって礼拝をするのが日課になっていた。一家の先祖を祭ることも大切にされ、元老院議員の家では蝋(ろう)でできた先祖の面(マスク)や肖像を保持していたし、市民の多くは定期的に一家の墓を訪れ、今は亡き先祖に礼を尽くした。』*42とある。
完全にローマに下ってからは ユピテル・ユノー・ミネルヴァ・の三神が最も重要な神とされているがペルシアのミトラやエジプトのイシスのような異国の神、来世に喜びと満足与えてくれる事が期待できる神々、家を守ってくれる神々や病気を治してくれる神々このほか、人生のあらゆる領域に守護神が存在し、信仰されたようです。
 まるで今の日本のごく一般的な風景のようです。
 また、先にエジプトを調べており 
ヘビ(コブラ)の印象が強いエジプト文明が ローマ帝国に滅ぼされたので、
ローマとへびは敵対意識なものと思っていましたが、意外にもローマ人の多くが信仰神をもち、蛇を守り神としていた事にびっくりしました。

参考文献
*42「知」のビジュアル百科 9 『古代ローマ入門』 
 著サイモン・ジェイムズ日本語版監修者 阪本 浩   あすなろ書房  2004年
上記写真2点とも (p. 23)



2012年4月24日追記
同様に 他の出版物からも上記とは違うモチーフの一家の社(ララリウム)
がありました。 多くのローマ人にとって蛇を守り神としていた事がよくわかります。先に見たララリウムと比べると守護神ゲニウスと”へび”を同一視しているかのような描かれ方である。

156 ララリウム ポンペイの住宅には、家族の安寧を祈願するためラール神を祠る場所がある。それがララリウムである。この壁画の両側に描かれた大きな人物像がラール神である。神話画とは異なる土着の要素が絵画様式
にも認められる。

70年頃。ポンペイ「ユリウス・ポリュビウスの家」。
(*113 ー p122)

*113「NHKルーブル美術館 Ⅱ 地中海世界の輝き 古代ギリシャ/ローマ」
監修:高階秀爾 責任編集:青柳正規
昭和60年7月20日 発行所:日本放送出版協会

ローマ帝国は紀元前27年より共和政から元首政(帝政)へと移行する。 これらララリウムから分かることは 帝政ローマ時代の初期の60~80年頃は確実に信仰されていたことがわかる。 
392年にキリスト教が国教となるがそれ以前の信仰として。




Ⅱ・美術品 装身具としての へび
◎ブレスレット
蛇はローマの美術や装身具によく見られるイメージである。蛇は家族に幸福をもたらす力を持つと信じられていた。(*39 - P56)

*39写真・説明文 ともp.56
『図説 古代ローマ文化誌』 1996年
著者:チャールズ・フリーマン 監訳者:小林雅夫
訳者:上田和子・野中春菜  原書房
◎・聖シメオン・ステュリテス(柱上聖人)*33写真 へびで表される民衆 
AD 450年頃
シメオンの姿を一目見ようと追いかけてくる群衆を表した彫刻。
ローマの民衆をへびにたとえている

『図説 古代ローマ文化誌』 1996年
著者:チャールズ・フリーマン 監訳者:小林雅夫
訳者:上田和子・野中春菜  原書房
*39 写真 p.181 
Plaque Of St Simon Sttylite :RMN,Paris

http://www.insecula.com/oeuvre/O0010890.html
上記 URLと同じ彫刻と思います


シメオン一世は高さ3mの柱上で10年間の修行僧生活をした後、死ぬまでの36年間を18mの柱の上で禁欲修行生活を続け459年秋にそのまま大往生を遂げた。

 聖シメオン教会はアレッポの北西、カラート・サマーンにある。ロマネスク様式としては世界最初の教会。上から見ると4つの寺院が放射状に連なる十字の形の斬新な建物でした真ん中に柱が立てられていた伝説の聖人、シメオンの威徳をしのんで建てられたもので、当時としては斬新なデザインだった。

こちらの彫刻のへびにも (のど)にのぎ(ひげのようなもの)を見ることができ、ローマの民衆をヘビにたとえている事が非常によくわかります。
③古代ローマ まとめ
 古代ローマもギリシャ人が多くを占めている。
 ギリシャ神話またローマ神話ともに統一視されている。 
 ギリシャ・ローマのへび信仰の流れを追ってみればトラキアに・・・。
 トラキアは今後調査予定ではありますが ペルシャやエジプトにつながる可能性もある。

 『古代ローマ入門』をビジュアルで生活を見てみると 今・現在と変らないような装飾品・金のピアス ゲーム(ぴこぴこ。テレビゲームではない!)や、おもちゃ 現在の生活文化そのままがここにあるのです。
 しかも その中には 
 ・お風呂を沸かして入浴(大衆浴場)する文化
 ・たこ焼きを焼く?ような 青銅器
 ・ガラスや、大理石の骨壷 ・火葬の文化まであるのです。*注意38(火葬について)

  神棚を持ったり、様々な神・半神を崇拝し他の信仰にこだわらないなんて・・・(愕然。) まるで日本人のようだ。 
 
ちなみに、下記写真は、エジプト・アメンヘテプ1世(前1551~ 前1524年)の頃の職人の村で、祠堂が建てられメントセゲル女神が祭られていたもの。

メレトセゲル女神(習作) 大英博物館  
  (写真*43-P233)
『男性が女性の頭をもったヘビのメレトセゲル女神に芳香のあるパピルスの花、供物を捧げる。デイル・アル=メディーナの職人の村から発見された石灰岩の破片(オストラコン)に描かれた画工の習作』
(*43-P233)
 古代ローマ時代に家庭にあるララリウムの元になっているのではと思うほどのメントセゲル女神の体がへびに・・・・。松本 弥氏 は、古代エジプトの人々は下記文中にあるように『家守の神々、道祖神
日本の旧家などには必ずといっていいほど祖先を祀る仏間が見られるのと同時に、神棚も鴨居の上に見られるのが通例である。古代エジプトの民家の中にも、家祀り、辻祀りの神があった。~中略~ 職人の村から仕事場である王家の谷に向かう途中には、往来の安全をつかさどる神のための祠堂が建てられていた。メントセゲルという人間の女神の女性の顔を持ったヘビの女神である』(*43 p.233 2行目 - p.235 1行目)
 現在の日本のごく一般的な家庭の風景のようなものがあったことを示している。古代エジプトにあった文化が、古代ローマにも受け継がれている 。
 そして、神棚を祭る文化をはじめシュメールの文献の中にも、古代エジプトの人々の生活の中にも すでに、現在と同じような生活環境が整っていた事実と同じにへびが如何に古代より崇拝されてきたのかということが非常に良くわかる。



古代ローマ へび まとめ

 ◎古代ローマではギリシャ人が多く多神教であったがキリスト教が国教となっても”へび”を崇拝。さらに民衆の”へび”を崇拝する気持ちが強くなってる。
 ◎ギリシャ神話での"ヘルメス"が ローマ神話になって”メルクリウス”となりますが、商業の神としてのメルクリウスは世界に広がっている。
 ◎エジプトでのへび崇拝はここ ローマにおいて確実に伝わっていた。
 
 


参考文献
*43 『物語 古代エジプト人』 著者 松本 弥  ㈱文藝春秋  平成 12年  

-- 蛇補足 --
 *注意44葬式の辞典』より http://www.sougi8.com/1/1-2/1-2-1.htm
『日本ヨーロッパ諸国のなかで高い火葬率を誇っているのは、チェコとイギリスで、1993年においてそれぞれ70%をわずかに超えているといったところです。~中略~
日本における火葬の歴史は約1300年ほど前にさかのぼるといわれており、そこには仏教の影響があったというのがほぼ定説となっています。
しかし、当時火葬を受け入れていたのは、天皇家や貴族あるいは一部の僧侶たちだけであり、ほとんどの庶民は土俗的な葬儀形態を保っていたようです。
その後、仏教は民衆レベルにまで除々に浸透していきますが、それでも庶民の間では土葬のほうが一般的でした。 こうした状況を一変させたのが明治政府の政策でした。 ~中略~ そうはいっても1900年頃には火葬率は30%ほどにすぎませんでした。その後、1950年には54%、1960年には63.1%,1970年には70.2%,1980年には91.1%と経済の高度成長と軸を一にするかのように急激に上昇し、1994年にはついに98.3%に達しました。このようにみてきますと、日本において全国的に火葬が一般化したのは、やはり太平洋戦争後、特に生活の近代化が定着してからのことだということがわかります。

先の古墳時代 飛鳥時代の火葬の変化においても 参照させていただいています。



四、アメリカ大陸の中の  へび
①、ナヴァホ・インディアンの砂絵
前1500年~1000年 アメリカ
 ナヴァホ族(ディネ族)はアメリカ州の先住民族で強い自治権を持っています。
 そのナヴァホ族の宗教儀礼の一部として儀礼小屋の床に
ナヴァホに伝わる神話に基づいた歌を砂で描くのですが
左写真はそれを絵にしたものです。
 4分的世界観、トウモロコシ・豆等植物の生える様子・2つの山をそれぞれ蛇が囲み 虹の女神がすべてを包んでいる様子です。
*45週間朝日百科 世界の歴史7 B-39 より

 前1500年オルメカ、チャピン両文化とも、ジャガー・・鳥のモチーフを使用しそれらを組み合わせた石彫・土器・土偶に示される体系を持っていた。
 その後1300年頃からの メソアメリカ・アンデスの文化にも影響を及ぼしている。
こういった文明は、ユーラシア大陸から伝播したといわれている。





五、中南米の中の  へび
①「アステカ帝国」におけるへび
 中央アメリカ 最後の大帝国「アステカ」は、1325年~1521年に起った。
文明的にはオルメカ・テオティワカン・マヤ・トルテカ文明を継承している。 恐ろしい事ではありますがすが生贄という儀式が行われていました。
 心臓を神にささげなければ太陽が消滅するという終末信仰・雨乞いや豊穣を祈って人身供養が行われていました。
 下記生贄用のナイフは、おそらくフリント(チャートといった堆積岩)と思いますが、黒曜石なども使用されたようです。

生け贄用のナイフ

「羽のある蛇」ケツァルコトル神

(左図*46-P60)
エジプト 
王妃 ネフェタリの墓の壁画


下降通路傾斜する壁の三角形部分に描かれる 

(左図*47-P88)
 
 上記 アステカの「羽のある蛇」ケツァルコトル神 と エジプトの 翼のあるへび はまさにそっくりです。

 またアステカにもピラミッドと同じよな建造物もあり エジプトの民族が海を渡り、中央アメリカに文明を伝えた事が 建造物とともに この「羽のある蛇」からもわかります。
 またマヤ人の予言の中に「いつかテスカトリポス神に追われた白い肌を持つ羽毛の蛇ケツァルコトルが帰ってきて統治権の返還をもとめるであろう」 とあり、スペイン人コルテスをケツァルトルと同一視され統治をされてしまうわけですが、予言の中からもエジプト人か分かりませんがそういった翼のあるへびを崇拝していた民族が 訪れていた事を推測させます。 
 王妃ネフェタリの壁画に描かれるへび鳥は、
『王妃の名前をしっかり保護することで王妃自身を守るという役割を果たすものである。ヘビの尾部分には、「命、安定、ラーの如き権力を贈る」と説明が添えられている。』(*47 p88 12行目 ― 15行目)

 このアステカの「羽のある蛇」ケツァルコトル神も 「命や安定あるいは再生」といった意味を持っていたのではないでしょうか。

参考文献
*46 『「知」のビジュアル百科 21 ピラミッド事典』
    著 ジェームス・パトナム  日本語版監修 鈴木八司
    訳者 鈴木麻穂 発行所 あすなろ書房  (p.60)
*47 『王妃ネフェタリの墓 ー 古代エジプト文明の粋 ここによみがえる -』
    著 ジョン・K・マクドナルド  
    J・ポールゲッティ美術館 ゲッティ保存研究所 ミュージアム図書 





②「インカ帝国」におけるへび
 ”日立 世界ふしぎ発見!” 2009/02/07(土)21:00放送
第1087回 「インカ帝国 最後の日 愛と激動のナンデス家の人々」

 「第1問ふしぎ発見!!」で、

『 インカで「銀のヘビ」と呼ばれたものは? 』

という問題が出されました。

正解は
『用水路』
銀のヘビ

坂東さん・設楽さん正解!! 野々村君も おまけの正解!!



 インカ帝国は15世紀から16世紀にかけてペルー・ボリビア・エクアドル辺りに栄えていました。
インカ帝国時代 王は、山脈地帯という急な山道を 国土維持のため国中の谷に吊り橋を掛け、石畳の道や階段を作り、その道中に食物の備蓄をしました。
 不思議発見のクイズ中にも急ぎの伝達を人が走って駅伝のように伝えていたようにインカ道は整備されていました。
 時代の建造物は、今も遺跡として、または現役の石壁として各地に残っています。大きさや形の違う石を隙間なく積み上げた石組みの技術は素晴らしいですね。
 第一問目の答えにある『銀のヘビ』と呼ばれる用水路も石造りであるため水が濁ることなく光に反射して銀色に輝いていたようです。

 石畳というと、紀元前から石畳の街道を整備していたローマ帝国を想像してしまいますがそういった技術を持った人がインカにも移動していたのかもしれませんね。

今回の放送で インカの人々が 水を「へび」のように考えていたことが分りました。
日本を始め世界でも水をへびの神として扱っていることは今まで調べてきたことですが、
今現在 へびの起源は陸上からか?水からか? 議論されているようですが、
こういった水の関連性から見ると、へびの起源は水から陸上に上がったのではないだろうか?と、
思ってしまいます。

銀のヘビ どこまでも続く

石を組んで作られた用水路 『銀のヘビ』 がどこまでも続いていく様子は感動モノですね。

『蛇の目って何ぞや?!ブログ』
http://janomette.blog8.fc2.com/blog-entry-22.html
より編集。(2009.3/24)



六、ネパール の へび
◎シャー王朝(シャハ王朝) と へび
 2010.9/9追記 ネパール ナラヤンヒティ王宮博物館「へび調査隊記」より

 1768年12月21日から 2008年5月28日まで続いたネパールの最も新しい王朝であるが、「へび調査隊記」からそのまま転載する。
ナラヤンヒティ王宮博物館 正門の装飾にへび
 で、まずココで へび調査隊として注目しなければいけないのは 次の写真である。
 上記正門の装飾でありますが、ライオンの顔はそのまま良くわかりますが、その近くにある装飾はへびですよね!!草などの装飾がはがれてへびのように残ったというものではないと思います。(この門全体が漆喰?のようなものでコテで塗り固めているようで、手塗り感が残っています。)

玉座の肘掛にへび
 これだけでは へびとは信じない人もいるかもしれません。 さらに重大な事実が!!

 左はインドのyoutubeのようなサイト?にあった「ナラヤンヒティ王宮博物館」についての動画です。(別ウィンドウで開きます。)

 動画:VideosFromIndia. SmasHits.com
 上記動画の中でも紹介されていますが、展示されているものに金銀製の玉座があります。
写真は 『AFP BB News
(2009年2月25日撮影)(c)AFP/Deepesh SHRESTHA
より引用。
 この玉座を両親は側面から見るかたちとなったのですが、玉座の肘掛部分がへびであったというのです。
 写真撮影禁止ということで 母がスケッチしたものですが 新聞広告の裏にメモとして書いたものですので見難いかもしれません。

 舌は出ていなかったそうですが、目と鱗のような模様があったそうです。 

王宮のいたるところにダビデの紋章
扉にダビデの紋章

 こちらは上記玉座の両サイド扉、ドアノブの上部にある装飾です。
上記玉座の写真では見難かったので父の証言を元にイラストとして書きました。

 そのほかにも塀の鉄格子などにもダビデの紋章があったということです。
宝物なども多く展示されており、首飾りにもダビデの紋章が、星型や放射状の勲章の数々の中にもダビデの紋章が装飾されたものが含まれていたということです。


2011年11/03追記
 上記YouTube動画:VideosFromIndia. SmasHits.com がリンク切れ?になっていて見れませんでしたので 以前キャプチャしていたものを追記として写真を上げておきます。
玉座ですが良く見ると背もたれの上部もヴィシュヌ神の後光に”へび”がいる装飾になっています。
 
ねっやっぱり
 ヘビと関係あるでしょ。
◎ヒンドゥー教 と へび(第六章と重なりますが・・・。)
 2010.9/9追記 ネパール ナラヤンヒティ王宮博物館「へび調査隊記」より

 シャー王朝(シャハ王朝)がへびを崇拝していたのかどうか調べていると 王がヴィシュヌ神の化身とされていたことがわかってきた。 
 『シャー王朝(シャハ王朝、英: Shah dynasty)は、1768年12月21日から 2008年5月28日まで続いたネパールの最も新しい王朝。王はヒンズー教徒で、ヴィシュヌ神の化身とされてきた。出身カーストはチェトリ(インドのクシャトリアに相当)。』WIKIより
 
 ヴィシュヌ神はヒンドゥー教の神であり ブラフマー神、シヴァ神とともに最高三神とされる。 ヴィシュヌ神には後光のようにへびが描かれたり、アナンタ竜王(蛇)の上に立つ描かれ方をされるようである。
ヴィシュヌ神、最近の神像画
(WIKIより)
 
 10世紀前後メソポタミアやエジプト的な印象であらわされるヴィシュヌ神は10世紀以降南インドで発展したようである。

古代インドの項でもシヴァ神とへびが関係あることを記しましたが、
ヒンドゥー教 最高三神の内 ヴィシュヌ神、シヴァ神と二神もへびと関係があることがわかった。


 よってネパール シャー王朝(シャハ王朝)がへびを寵愛していたことが理解できるのである。





七、カルタゴ のへび ローマ支配下含む
◎チェニジア世界遺産 古代カルタゴとローマ展 より 転載 (2011.03.11追記)
 
◎カルタゴ とは
カルタゴについて何も知らなかったので、ローマ、ヴェネチアとともに簡単な年表を使ってみました。
 ポエニ時代
紀元前12世紀頃  フェニキア人がフェニキア地方(現レバノン)の都市を基点に盛んな海上交易を行う。
 北アフリカから地中海全域で活躍(伝承による)
前1050年頃 アルファベットの原型、フェニキア文字の誕生
前814年 王女エリッサ(ディードー)が建国
前509年 ローマと初めて条約締結
前348年 ローマと2度目の条約締結
前306年 ローマと3度目の条約締結
前264~前241年 第1次ポエニ戦争
 シチリアを失う
前218~前201年 第2次ポエニ戦争
 スペインを失う
前149年 第3次ポエニ戦争 始まる
 
前146年 カルタゴ滅亡

 今回のカルタゴ展でへびと関係がありそうな物を次節『◎カルタゴ 遺物の中の へび』に引用しましたが、その展示物とおおよその年代に照らし合わせ””を付けました。


 カルタゴ、ヴェネチアともに地中海という自然と地の利を生かし、商業で莫大な利益を得、最盛期にはローマ軍も海賊も恐れる海軍を保持するまでになったフェニキア人。 素晴らしい技術と経済力を持っていたようです。
 図録中 「カルタゴの宗教と神々」ということで佐藤育子さん(日本女子大学研究員)はローマがカルタゴに恐れたものは経済力だけでなく、純粋でストイックなまでに信仰心に厚かった人々の精神そのものであったのかもしれないと述べています。 そして、冒頭 フェニキアで崇拝されていた神々は青銅器時代、カナンの地で信仰されていた多神教の系譜を持つと。
 そこで、カナンの地(ヘブライ語聖書に記された、神がイスラエルの民に与えると約束した土地。)とは何か調べると、紀元前18世紀シュメールの都市マリで発見された23000枚の粘土板文書の残骸から、政治的な共同体として明瞭に見いださる。ということがわかりました。
 カナン人がメソポタミア文明とつながり、どうりで、シュメール文明にみられるようなガラス細工のマスク形ペンダントがあるわけです。
 紀元前2千年紀には古代エジプト王朝の州”カナン”の名称としても使われております。
 そしてモーセ五書のうちの一書”民数記”によると 地中海沿岸の”カナン人”とは”フェニキア人”と符号し、”カナン人”とは”商人”と同意語であることがわかりました。
まるで 中国大陸の”殷”=”商” であり”商の人”から”商人”となった事に似ています。


◎カルタゴ 信仰
 商人であるフェニキア人は シュメール文明にも見られたような信仰の仕方、青銅器時代、鉄器時代と各都市の守護を司る神を祭り、時代とともに本土伝来の神々の他にイシス・ホルス・べス・エジプトの神々も受け入れたようです。 それは今回の展覧会で掲載以外の展示物からも非常に良くわかりました。
 そして、カルタゴでもっとも崇拝された神々はバアル・ハモンとタニトという一対の男神と女神であったようです。 
 バアル・ハモンはギリシャのクロノス神、ローマのサトゥルヌス神と同一視され、タニト(左:石碑からの写真)はいくつかのバージョンがあるもののエジプトのアンクとも関連付けされているようでもあります。
エジプトの神々が手に持っているものの多くがアンクでありキリスト教の十字架につながるともいわれています。
 そうであるならば初期キリスト教はへびと深く関係するとも思われ、
 タニトをへび調査隊として見れば水平線の上部分は、ウラエウスと日輪 と推測させていただくわけです。


◎カルタゴ 勢力図

 シュメール文明の中で商人として交易を重ね、特定の国を持たず貿易の拠点として都市を築きながら地中海をさらに勢力を広げていったことがわかるように、 
 ・東のメソポタミア地域
 ・ナイル川とユーフラテス川で境界したカナン(約束の地)
 ・カルタゴ遺跡の場所と勢力図
を地図にしておきました。
(注:ハンニバルはカルタゴの優秀な将軍。)
◎カルタゴ 遺物の中の へび
  今回の展覧会で展示されていた物の多くは初期カルタゴではなく、 やや後期カルタゴ、そして前146年ローマに支配されアフリカ属州となったカルタゴの遺物であります。
 前146年以降の遺物はローマ色を帯びて当然であり、ヴェネチアも独立国といいつつもやはりローマの影響が大きかった事がわかりました。
 
 それでも 会場に入ってすぐに目にした前3世紀末-前2世紀初頭のマスク(Mask)にへびの鉢巻があったのはせめてもの救いでした。
マスク(Mask)  
前3世紀末-前2世紀初頭
カルタゴ、トフェト
テラコッタ
高50cm、幅41cm、厚17cm


鼻の下から口の両側を囲むように伸びた3本の溝は口ひげを表現したのだろう。深い溝が左右に開いた鼻孔の下から刻まれている。両耳たぶには孔が開けられている。顔全体は朱色に塗られていた。頭頂部には吊るすための3つの孔が開けられ、2匹のヘビの装飾が額の中央で巻きつき絡み合っている。[L.F.]
註*48-P32
 説明にもあるようにへびが鉢巻のように巻きついているマスクである。マスクと言ってもかなり大きいものだった。祭祀用に使用されたのかもしれない。 鉢巻状のものが本当にへびか判らなかったので、係りの人に伺ってみるとこのようなへびを鉢巻にしたものがいくつか出土しているとのことであった。

 
マスク形女性頭部像(Terracotta Protome)  
前5-3世紀
カルタゴ
テラコッタ
高17.5cm


様式化された巻き毛を持つ髪は、並んで型押しされた円によって造形され、エジプト風に耳の後ろに流され、前髪は滑らかなヘアバンドによって留められている。これは、ギリシア・フェニキア風である。
マスク形の頭部像は墓に置かれていて、死者の魂を悪魔から守り、また善き力の恩恵と加護を呼び寄せる力があるとされていた。[L.F.]

註*48-P33
 同じようなテラコッタ製の女性頭部像がもう一点展示されていたがそちらは前6世紀末の物で髪の毛がストレートヘアーであった。 時代が下って髪の毛に 渦巻きを型押し墓に置かれる事とを考えると、この渦巻きはへびを表す物として再生を願った物ではないかと推測する。

  
マスク形ペンダント(Mask Shaped Glass Pendant)  
前3世紀
ガラス
高3.1cm、幅2.2cm、厚3.4cm


巻髪の男性の頭部を模ったペンダント。頭頂部にはおそらく首からかけるための紐などを通す環が1つ取り付けられている。青色の巻髪のいくつかは残っているがマスク下部やひげの部分は失われている。[A.B.Y]
註*48-P38
マスク形ペンダント(Mask Shaped Glass Pendant)  
前4-前3世紀
カルタゴのネクロポリス(共同墓地)
ガラス
高7cm、幅4.5cm、厚3cm


男性の頭部を模ったマスク形ペンダント。頭頂部の環は、おそらく首からかけるために紐などを通すものであろう。[A.B.Y]
註*48-P39
 様々な文化が混ざり、豊かな文化を形成していった事がわかるカルタゴであるがその中でも これらマスク形ペンダントがガラスでできている事も驚きである。 また、特徴的な黒くまん丸な目、特徴的なひげの装飾はテル・アスマル出土(シュメールの都市エシュアンナ アブ神殿出土・前2600頃))の祈祷像 
にも似ている。髪の毛の巻き毛、ガラスで一つ一つ丁寧に付けているにはそれなりに意味があっての事ではないだろうか?そうでなければ色で塗って髪を表現すれば済むことである。これもへびを表しているのではと思い掲載した。 へびと推測するもう一つ理由は下記に掲載するコインとメデューサである。


 ちなみに これらマスク形ペンダントは 人頭玉(じんとうだま)とも呼び 日本でいうトンボ玉の種類のようです。 昔からとんぼ玉は魔除や王の権威を顕す装飾品として造られたもので、日本でも古墳から勾玉などと一緒に装飾の無いトンボ玉のようなものが出土しているのは調査隊でも確認済みですね。 また5~7世紀には国内でガラス製で鋳型に流す製造もされています。語源は諸説あるようですが、トンボの尻尾のように数珠繋ぎにする説や、お墓(英語でTomb)から出土したことからそれをローマ字読みしたものなどがあるようです。

 シードビーズで復興を遂げたヴェネチアンビーズの繊細で精巧な技術はこういったフェニキア人の伝統でもあり、得意とする分野であることが判ります。

 
奉納石碑(Votive Stele)  
前3-前2世紀
カルタゴ、トフェト
石灰岩
高64cm、幅15.4cm

頂上部に2つのアクロテリオンと破風をもつ石碑。破風にはタニトの印が刻まれ、その下には、2匹の聖蛇ウラエウスと有翼の太陽円盤が描かれている。中央部分には、2本のカデュケウス(杖)と実のなる房のついた2本のナツメヤシの間に、足までとどくトゥニカ(チェニック)をまとい儀式の姿勢でたたずむ女性礼拝者の姿が見える。左手は腹部に置かれ、掲げられた右手は祈りと感謝の仕草を表す。前4世紀末から前2世紀初頭のカルタゴのネクロポリス(共同墓地)から出土する墓碑にもよくみられる図像である。下部には、プロト・アイオリス様式の柱頭で囲まれた枠の中にポエニ語碑文が刻字されている。カルタゴ人たちは、アイオリス様式の柱頭を非常にj好み、渦巻型の柱頭はしばしばカルタゴ出土の石碑に描かれた。同様のものが、ドゥッガ(チェニジア)やサブラタ(リビア)から出土したのローマ時代以前のモニュメントにも見られる。[S.B.T]

註*48-P70
奉納石碑(Votive Stele)  
前3-前2世紀
石灰岩
高66.5cm、幅17.5cm

破風には、外側に向かって湾曲する枝状のパルメット文が描かれている。その下に卵鏃文(卵形とやじり形の文様)の帯状装飾が続く。中央枠の中に、ポエム語碑文が刻字されている。下部には、カデュケウス(杖)とその両側に手のひらを開いた2本の右手が描かれる。これは、祈りあるいは誓いのシンボルを表す。この石碑は、破風をもつヘレニズム様式の台座の特徴を非常によく備えており、卵鏃文などのギリシャ起源のモチーフを配列することによって石碑の各場面を分けている。より新しい図案では奉納物が主役になり、主要な場面は石碑の下部に描かれるようになった。石碑のこの部分を飾るために、カルタゴの碑銘彫刻師は、動物、花、宗教的シンボルといった様々なモチーフを用いたのである。[S.B.T]

註*48-P72
 上の石碑”2匹の聖蛇ウラエウスと有翼の太陽円盤”と書かれていますが、
上の奉納石碑拡大
三、 ペルシャ帝国の中のヘビより
エジプト プトレイマス朝の碑文

 エジプト文明、ペルシャ文明の思想が反映されている事がわかる。見えにくいかもしれませんが、上下石碑ともカデュケウス(杖)が彫られている。カデュケウスはシュメール文化(紀元前2100年頃)グデア王からニンギッシダ(ニンギシュジダ)にささげられた”祭礼用水差し”に装飾されている二匹の絡み合うへびが原型と調べてきましたが、ギリシア神話のメリクリウス(マーキュリー)として発展している。 でもこの奉納石碑の彫られ方はローマ時代の形に似ているようです。

 
コイン(Electrum Coin)  
前264-前241年
エレクトラム(自然合金)
径2.2cm、重10.83g

このコインには女性(コレーまたはタニト女神)の横顔が描かれている。2つの麦の穂を冠のように頭につけているが、これは農業を司る神のシンボルである。
 裏面には、馬が描かれ、その上には、2匹の聖蛇ウラエウスの間に太陽を表す円盤がある。馬は、カルタゴの建国に関する伝承を暗示しているのかもしれない。このコインの図案はシチリアのギリシア・コインから着想を得ている。しかし、これらの第1次ポエニ戦争期におけるエレクトラム製コインに関して重要なのは、カルタゴでも打刻されたということである。[S.B.T]

註*48-P78
 上段の金貨に”2匹の聖蛇ウラエウスの間に太陽を表す円盤”が型打ちされているが、
三、 ペルシャ帝国の中のヘビ で掲載した
紀元前378~372年 タルソスの工房。パリ国立図書館メダル室(188番) のメダルの装飾に似ている。 おそらくアフダマスダ神の象徴であり、ペルシャ帝国の影響も受けている事がわかる。

但し、他のカルタゴのコインには同じ位置に”タニトの印”が刻印されているものもある。



 
コイン(Bronze Coin)  
ポエニ時代
青銅
径2cm、重2.9g

表面には、ヘビの形をした髪をもつコレー女神の頭部が、裏面には振り向く馬が描かれている。[S.B.T]
註*48-P80
上記青銅製コインの拡大でありますが、「ここにへび」という注釈がないので定かではありませんが、おそらく丸で囲んだ部分。他のコインと比べて髪の先が2つに分かれている。メデューサのようです。


 
イヤリング(Gold Earrings)  
ポエニ時代

高4.8cm

ライオンの頭とイルカを模したイヤリング。カルタゴ製か、あるいはカルタゴ以外の宝飾品製作の盛んな地から輸入されたものである。このイヤリングは、カルタゴやタッロス(サルディニア島)のような、ポエニ人の製造業の中心地での宝飾品製作に、地中海沿岸の芸術と信仰が多様な影響を及ぼしていることを明らかにしている。[A.B.Y]

註*48-P81
 ココにへびはいませんが、マーライオンのようなライオンの装飾。 そしてイルカの装飾。 ヴェネチアン・グラスのイルカの装飾が非常に変わった、異常な形をしていました。同じ民族のフェニキア人が作ったカルタゴのイルカの方が見た目もかわいらしいし 一目でイルカってわかるじゃん!!
 やっぱ ありゃっへびだよ。



 
 って!! いた!! ここにも巻きつくイルカ
イルカを模った装飾彫刻(Marble Sculpture for Decoration in the Shape of a Dolphin)  
2世紀
大理石
高39cm、幅17cm、奥行12cm


イルカが、小柱あるいは幹のまわりに巻きつけられている。これは単独の作品で、欄干の装飾か、あるいは像の一部、例えば、浴場でしばしば見られるヴィーナス像に付随するものである。ヴィーナスは水浴と直接的な関係があり、自身も海から生まれた。チュニジアのモザイクにも、ヴィーナスに従うイルカの姿を見ることができる。[F.B]
註*48-P104
 全体像ではないから わかりにくいですが やっぱり これはへびでしょ~~!?
背ビレも無いし 目もちょいと怖いよ。 ローマ時代でもへびと裸婦の組み合わせは多いと聞く。
 

 ③アポロンの貢でデルポイ(デルフィ)という名称は、アポロンが姿を変えたイルカ(ギリシア語で「デルフィス」)に由来する。と書きましたが、 
 これまで へび調査隊記
磐田市香りの博物館 (10.04.15)   
古代カルタゴとローマ展 (10.05.12)
で見てきた ベネチアングラスや柱の ”イルカ” なようで ”へび” のような装飾の発想は 其処から来ているのでは?と推測している。
メデューサ(Medusa)  
3世紀
ディナ(スファックス近郊)
大理石、石灰岩
90*89cm


このモザイクはティナの浴場に装飾された舗床モザイクの一部である。多彩色の立法体の組み合わせモチーフを周囲に配した円形メダイヨンの中に、メデューサの恐ろしい顔が浮び上がっている。そして、覗き込む者を石にしてしまう邪悪な目と、ヘビがうごめく頭髪が描かれている。メデューサは、長姉ステンノー、次姉エウリュアレーとともに、ポルキュス(冥界神ハーデス)とその妹ケトのあいだに生まれた娘たち、ゴルゴン三姉妹の一人であった。
姉二人は不死身であったにもかかわらず、メデューサのみ生身の人間であった。ゴルゴン三姉妹は、人間だけでなく神々からも恐れられていたが、海の神ポセイドンは、メデューサに求愛し、妊娠させた。一方、アテナの命によって、英雄ペルセウスは剣でメデューサの首を打ち落とすことに成功した。このとき、メデューサの体から噴き出した血から、ポセイドンの子である聖馬ペガサスと黄金の剣を持つ巨人クリュサオルが誕生した。戦争の女神でもあるアテナはその首を自分の盾にはめ込み、向かう敵すべてを石に変えていった。
 時代とともに、メデューサの伝説も変化していく。多くの記述では、美しい少女であったメデューサが、アテナの怒りを買い、ヘビの頭髪を持つ醜い姿に変えられたとされている。[A.B.A]

註*48-P117
 恐れられているメデューサを大衆浴場のタイルに、1cmと細かい石片をつないで装飾するでしょうか?しかも、表情は怒っているとは思えない。 どちらかといえば「ぼ~~っとしてる。(どこかをなんとなく見ている様だ。)」
 ・バルミア(シリア)の地下墓(1~3世紀)入り口に 鬼瓦の原型となったといわれるメデューサの石彫りがある。
 ・ローマ帝政下時代(AD532年)、トルコイスタンブールのアヤソフィア寺院のすぐ向かい側の巨大地下貯水池の柱に横と逆さにされた巨大なメデューサの石像がある。
 シリアのメデューサの石彫もローマ帝政下時代。 いかにローマがへび好きであったか・・・。
多少 このモザイクと時代が前後するが カルタゴでも ローマの影響を受けているかがわかる。しかも嫌われている、怖がられるというよりも守っているというニュアンスの方が正しいのではないだろうか。
ゾウとニシキヘビ(Mozaic depicting an Elephant and a Python)  
5世紀初頭
カルタゴ、デルメシュ
大理石、石灰岩
165*160cm


なだらかに傾斜した丘を背景に、散在して生える植物にとりかこまれながら、ゾウが獰猛なニシキヘビに攻撃されている。ニシキヘビは、ゾウの脇腹に絡みつき、腹部からは血が滴り落ちている。このパネルは、狩猟をテーマとした大舗床モザイクの一部であり、本来、狩猟場面だけでなく、狩人や狩りのための準備の場面が描かれていた。[A.B.A]
註*48-P125
 この作品もタイルでできているとは思えないほど写実的で美しい作品です。 説明書きにもゾウが蛇に攻撃されてかわいそうといったニュアンスで書かれていますが、おそらく、へびの勇敢さや強さをアピール誇示しているパネルと思われる。
 その証拠に 後世ニシキヘビの頭が何者かによって削り取られている。 へび民族に敵対する民族の行いと推測する。高松塚古墳の玄武といったところでしょうか。


 ちなみに私が思うにローマ軍をこらしめたカルタゴの将軍ハンニバルが初めて負けた決戦でハンニバルは象部隊で突撃したようなので、そういった風景をタイルにしたのかも。 (とするとフェニキア人が剥がしたのか?) 
 
以上 カルタゴの貢 出展 
*48 『古代カルタゴとローマ展 -きらめく地中海文明の至宝ー 図録』
 図録監修:本村凌二、栗田伸子、佐藤育子
 翻訳:佐藤育子、伊藤雅之、大清水裕、高橋亮介、瀧本みわ、田中創、中川亜希、渡邊耕
 デザイン:山田雅彦
 編集協力/制作:インターパプリカ
 印刷:三映印刷株式会社
 編集/発行:東映株式会社』
註: 引用部 P以降の数字は上記著書のページ




第六章  宗教の中にみる へび
世界の蛇について

 宗教 については、あまり触れたくないとおもっていたのですが 神話や、へびを表す遺物を調べるうちに 切っても切り離せない存在なのではという思いになっております。
 世界の遺物にあるへび ・ 蛇と関係のあるものを、見てきましたが 蛇と民族と宗教が、直接結びついているか断言はできませんが 密接にかかわってきたのではないか。と思っています。 

 今まで見てきたへびに関する遺物から 宗教とへびと どのようなかかわりがあるか簡単ではありますが以下の様にまとめてみました。
時期 起った国 へびとの関連 付記事項
ゾロアスター教
前15・13世紀 ペルシャ アフラ・マズダー 紋章 世界最古の一神教
ゾロアスター教と蛇がどのようなかかわりがあったかは解りませんが 紋章に表されるように、太陽と翼とともに蛇が崇拝されていたのではないかとの推測・仏教でいう水天は最高神アフラ・マズダーを表す
ユダヤ教
前6世紀 古代中近東 エル・ヤハウェ 青銅の蛇 唯一神
後の章「鏡餅」にて付記。前13世紀エジプトの奴隷とされていたイスラエル人を連れ出した預言者「モーセ」 の”青銅の蛇”。この頃は偶像崇拝されていた様。 

2010.9/9追記 ネパール ナラヤンヒティ王宮博物館「へび調査隊記」より
 ヒンドゥー教が80%のネパールで旧王朝シャー(シャハ)王朝の宮殿のいたるところにユダヤ教であるダビデの紋章が。王はヴィシュヌ神の化身とされ現在のヴィシュヌ神の後光に「へび」。玉座の肘掛にも「へび」 
原始キリスト教~ローマ・カトリック
起源1世紀 イスラエル・パレスチナ イエスキリスト 創造神 サバジオス ローマ帝国で広がる
ローマ帝国 原始キリスト教時代 創造神サバジオスのシンボルを蛇とし、民衆も蛇で表されている。 後の章「楽器」のセルパン(蛇の意)からも 西方教会カトリックは蛇を神聖視しているのではという推測。
イスラーム教
7世紀始 アラビア半島 アッラーフ × 唯一神
・偶像崇拝の排除
ユダヤ教・キリスト教の影響を受け頭初はその延長線上に置かれていた。ただ残念ながら蛇との関連は現時点でわからない。
ヒンデュー教
4世紀 古代インド 最高三神と様々な神 シヴァ・ナーガ・ガンガー 三神もエジプト・ペルシャが起源(民間宗教の融合)
神話からも見られる様に様々な民族と神が融合している様に思う。様々な神もいろいろな呼ばれ方をする。 インドに侵入したアーリア人が、ドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形成その後、民間信仰を取り込みヒンデュー教へ発展

2010.9/9追記 ネパール ナラヤンヒティ王宮博物館「へび調査隊記」より
 最高三神であるシヴァと「へび」が関連があったが、現在のヴィシュヌ神(最高三神の一神)の後光に「へび」
仏教
前5世紀 インド・ガンジス川中流 仏  弁財天・水天・普賢菩薩 初期仏像もギリシア・ローマの影響
弁才天は、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvat?) が仏教・神道に取り込まれた呼び名
水天は、インドのヴァルナ(Varu?a)・ゾロアスター教のアフラ・マズダー
普賢菩薩は、インド サンスクリット語でサマンタ・バドラ (samanta bhadra)
 
 様々な宗教 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教もゾロアスター教の影響を受けておりますが、仏教において水天が竜や蛇をまとめる神として表現されるとともに、インドのヴァルナまたゾロアスター教のアフダ・マズダーと同一視されている。

 ユダヤ教は シュメール南ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされる(紀元前597年)以前を 「古代イスラエルの宗教」 以後を「イスラエルの神ヤハウェ」 に分けることができその古代イスラエルに起源がある。
 シュメールの円筒印章に見られる様にアダムとイヴにささやくへびの起源をかなり遡る事が解ります。
 紀元前5000年頃 カルデア人がウルに王朝を建て 紀元前3000年頃メソポタミアにシュメール文明が起ったところまで遡ることができる。
 

 へびという動物は 人類の有史以前から 民族の宗教・思想の中でがかたちを変えながらも生き続けている そう感じております。

 現在では 遺伝子で、ルーツの探求がされ 人類が アフリカの一人の女性「ミトコンドリア・イヴ」にたどり着いた仮説がなされてもいます。
補足 「ミトコンドリア・イヴ」についてのURL

http://www.kyowa.co.jp/bioworld/OmoshiroBio/JapBasic13.html 
共和発酵

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%82%B3
%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96
WIK

 吉野裕子氏が地母神としてのへび として、へびは 世界的にも 祖神様(おやがみさま)と述べてるように。
 あるいは吉野裕子氏が カールセーガン著、『エデンの恐竜ー知能の源流をたずねてー』において 
『R〈爬虫類〉複合体とよばれる脳の一番奥の部分は恐竜の脳の働きをしている。』
と述べるように 
恐竜時代の記憶が人間の遺伝子にきざまれて居るのでしょうか。

 ただ 私が思う人類の進化は 人間がおなかの中にいるときが進化の過程という説を信じている。 人間の胎芽(たいが)(妊娠7週目まで)には「しっぽ」と「エラ」があるように海から上がってきた生物という説。恐竜ではなかったと思う。
 地球が恐竜時代の頃に人間は胎芽としての進化の途中で 両生類?魚類?だった人間は、強大でカッコのいい恐竜を見上げては あこがれていたのかもしれない。
 あるいは 地球ができた と同じ位に 精子と卵子 のようなものがあり その精子にへびを見たのかもしれません。 

 そういった人類の進化の過程の中で へびというものが 崇拝されたり信仰の対象になっていったのではないのかなぁと推測させていただきます。 

第六章と 章にしていますのでいずれ時間のあるときにもっと詳しく分析してみたいと思いますがとりあえずここまで。


 そして 次の章からは 再び 国内に目を向け 「へび」を表すもの また 同じく「へび」と思えるものも、もう一度検証してみたいと思う。




 
 
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