蛇の目ってなんぞや?!
 
へび調査隊記
 2010年03月29日
 春休み 巳美隊員の親族がいる茅ヶ崎市へ2泊3日で行ってきました。 初日は家内の姉の子供達も一緒に江ノ島水族館へ 「レッツゴー!!」

「ひょえ~~~」開館と同時くらいに着いたんですけど
「なに これ~~~」 すでに数百人の行列・・・・。


駐車場に車も入れたんですよ~

「 o(;△;)o エーン 」
みんなに聞くと 「あきらめる。」という事で・・・。



家内の母親もいるので 鎌倉にでも行きましょうか。

と 車を東に進めると なんだか鎌倉方面の上空 真っ黒じゃ~~~ん。

結局 江ノ島(神社)に行く事となりました・・・。


江島神社
辺津宮(公式HPより)
所在 〒251-0036
神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号
TEL (0466)22-4020
御社殿
祭神
神奥津宮の多紀理比賣命、
中津宮の市寸島比賣命、
辺津宮の田寸津比賣命
天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれた三女神(江島大神)
駐車場 島内にある民間有料駐車場
創祀年代 奥津宮 欽明帝13年(552年)、神宣に基づき欽明天皇の勅命で、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まり
中津宮 仁壽三年(853年)、文徳天皇により創建
辺津宮 健永元年(1206年)、将軍・源實朝が創建
御末社 八坂神社、稲荷社、秋葉社(合祀社)、龍宮
祭事 初巳祭:例大祭。4月最初の巳の日。
初亥祭:初巳祭に並ぶ例祭。10月最初の亥の日。
http://www.enoshimajinja.or.jp/
*上記案内は調査当時のものです。必ずオフィシャルサイトでご確認の上お伺いください。



 
 

江の島弁天橋
交通安全祈願所

島について左(東)側に車を進めるとすぐ。北緑地の向かい側にある。
青銅の鳥居
 文政4年(1821年)に再建。藤沢市指定文化財。
銘は「江島大明神」(ぐしゃっとした字で読みにくい。)

ココから神域ってことかな?うわ~~やっぱり 鳥居の向こうは人だかり
入り口


至る所に見られる神紋
 「太平記」による”三つ鱗”の謂れ
北条時政が江の島弁財天の祠に二十一日間参籠して、子孫の繁栄を祈っていると、その満願の夜の明け方に、緋の袴をはいた気高い女房が現われて、
『汝は前世に六十六部の法華経を書写し、六十六ケ国に奉納した。その功徳によって汝の子孫は日本を支配し、栄華を誇ることになろう。しかし、もし非道なことがあれば、たちまち家は滅亡じゃ。よくよく身を慎まねばならぬぞ』
と告げて、たちまち二十丈もある大蛇となり、海中に姿を消した。そのあとに残った三枚の鱗を時政は持ち帰って家の紋にしたという。その後、時政は源頼朝の創業を補佐し、子孫は鎌倉幕府の実力者となった。
瑞心門
龍宮城を模して造営。くぐった正面に弁財天童士像。
江島神社鎮座1450年を記念して平成14年建立。
 この島ができたとき雲上に天女が白龍と十五童士を従えて現れた伝説による。


いよいよ メインの神社へ
邊津宮(へつのみや) (辺津宮)
祭神 田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)

土御門天皇健永元年(1206年)、将軍・源實朝が創建。 延寶三年(1675年)に再建された後、昭和51年(1976年)に改築される。江島神社の一番下に位置していることから『下の宮』とも呼ばれる。
中津宮(なかつのみや)
祭神 市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)

創建は文徳天皇仁壽三年(853年)。その後、元禄二年(1689年)に改築され、 朱色が鮮明な現在の御社殿は、平成八年の全面的な改修により、 元禄二年改築当時の中津宮(権現造り)を再現したものです。 幣殿・拝殿の天井には花鳥画や、彫刻が施され、境内に奉納された石燈籠寺は、 江戸時代における商人・芸人・庶民の信仰の深さを物語っています。
奥津宮(おくつのみや)
祭神 多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)

多紀理比賣命は、三人姉妹の一番上の姉神で、安らかに海を守る神様といわれています。相模湾を臨む岩屋に一番近い奥津宮は、昔は、本宮または御旅所(おたびしょ)と称され、 社殿は壮麗を極めていましたが、天保十二年(1841年)に焼失。翌十三年、現在の御社殿(入母屋造り)に再建される。
養和二年(1182年)に、源頼朝により奉納された石鳥居や、江戸の絵師・酒井抱一が拝殿天井に描いた、 どこから見てもこちらを睨んでいるように見える「八方睨みの亀」が有名。現在の絵は片岡華陽の復元画
 

そして まってました。 へび神様!!
奉安殿(ほうあんでん) 
営業時間
9:00~16:30
休日
年中無休
料金
大人150円、中高校生100円、小人50円
 昭和45年に妙恩弁財天と八臂弁財天の御尊像を奉祀する為に造営された八角のお堂で、中には十五童士像、御宇多天皇の勅額、弁財天像扁額、弘法大師の手形が押された護摩修法による弁才天像がある。
妙恩弁財天(みょうおんべんざいてん) 八臂弁財天(はっぴべんざいてん)
「裸弁財天」ともいわれ、琵琶を抱えた全裸体の座像です。 女性の象徴を全て備えられた大変珍しい御姿で、鎌倉時代中期以降の傑作とされています。 音楽芸能の上達を願う人々が多く訪れています。  鎌倉時代初期の作。源頼朝が鎌倉に幕府を開くとき、奥州の藤原秀衡調伏祈願のため、 文覚上人に命じて造らせ、二十一日間祈願させたことが、「吾妻鏡」に記されています。 江戸時代には、八臂弁財天は勝運守護の神様として武家から庶民にいたるまで広く信仰を集めていました。
写真撮影禁止 という事でしたので
妙恩弁財天、八臂弁財天の写真とも辺津宮社務所で購入したパンフレットより。

藤沢市HP 指定文化財ではカラーで見られます。
木造彩色弁財天坐像
木造弁財天半跏像(裸弁天)

(加工画像は岡田黒川堂様より)
 八臂弁財天の頭上に宇賀神(蛇身弁財天)が乗っていました。

さらに 奉安殿には 中央に大きな鐘と正面に下記イラストのような石像が・・・。
 妙恩弁財天、八臂弁財天に使える白蛇のように”へびの石像”一対が左右に紅白の座布団の上、鎮座していました。

 撮影禁止という事でしたので手書きイラストを元に作成。

右の石像の首の辺りに鈴みたいな丸い装飾が付いていました。




江島神社 感想
 
 すばらしい 日本三大弁財天と言われるだけあって へび神様の聖地であるといっていい!!
ただ 世間で騒がれるパワースポットといわれると ?であった・・・。

 だってここは 一大アミューズメントパークと言った方がしっくりくるからである。
お賽銭や駐車料金は当然でありますが お金がかからなく観光客が楽しめるイベントが目白押しなのだから。
銭洗い白龍王
 もともと岩屋洞窟にあったものが、ここ白龍池に移り祀られる。

 その御霊水で、金銭を洗うと金運向上・財宝福徳のご利益があるとされてきました。 白龍王の授ける清浄な水で我身我心の不浄の念を洗い清めると神の御守護をいただくとの事です。
お金洗って 御利益があるわけないじゃん って・・・。
思いつつ。
  
           「とりあえずやっとくか。」
福石
今でも、ここで物を拾うと幸運を授かると伝えられています。 宝探しだ
福石謂れ
江戸時代、幼くして失明した杉山和一(杉山検校)がいました。江戸当時、山瀬検校や入江豊明などの高名な鍼師がおり、和一は鍼師(はりし)をこころざします。伊勢を離れ一人江戸に旅立った和一は、日頃から弁財天に帰依しており、この江の島を訪ね、技術の上達を祈願しました。山から下りる帰り道に石につまずいて倒れてしまいました。 意識を失った和一に、五色に彩られた雲に乗って弁財天が顕れたそうです。和一は両掌を合わせましたが、何やらチクチクと体を刺すものがあって、手に取ってみると松葉が入った竹でした。 これは弁財天の思し召し-と竹筒にヒントに杉山式管鍼術を考案し、その後、将軍徳川綱吉の病気を治し関東全域の盲人を束ねる最高位・関東総検校にまで出世したそうです。そのヒントになった石が福石というわけです。
茅の輪くぐり
『罪やけがれを祓い清めるためにお祈りする』 

「祓い給え、清め給え」と言いながら
正面を向いて左、右、左と回ります。
 そもそも6月の『水無月大祓式~茅の輪(ちのわ)くぐり~』にやるものじゃないの~~?

「年中無休かいな?」
と・・・モニターにツッコミつつ、常日頃 邪心や煩悩の多いわたくしも なんだかこの時だけ けがれのない少年のような気分でやっていた気がします。
 今回 母が足が弱いので ここまでで移動(ショッピングセンター)したのですが その他にも、パワーの源と言っていいんでしょうか?かつての江ノ島神社本宮 岩屋御窟(龍穴)といった洞窟探検。「天女と五頭龍」伝説から平成8年に作られた龍恋の鐘。 「恋人岬」の真似かいな~~~ など まだまだ半日では周りきれないほどでした。

 その他のツッコミ所は
 うわ~~ 大判小判が”ざっくざく”の打ち出の小槌に、お賽銭箱が巾着袋!?
せっかくケガレを払い落としたのに また欲深な気持ちが沸々と・・・。

 だいたい 神頼みでお金持ちになったら 世の中みんなお金持ち。 誰も努力しなくなっちゃうよ。

 と、思いつつ・・・・
 わたくしだけ こっそり 白へび様のお守りを買ってしまうのでした・・・。
(「へへへ お金持ちになりますようーに」)

 だって だって  白へびが付いてるんだもん。
 そのかわり わたくしだけアイスクリーム食べなかったからいいでしょ~~~。


(こっそり 自分だけお金持ちになろうという根性)
  「もう一度 江の島神社でケガレを落としてきなさい!!」    by白へび



 
最後に
『龍恋の鐘』。 「恋人岬」の真似かいな?というとこで ちょびっと触れた「天女と五頭龍」伝説を下に貼っときます
天女と五頭龍伝説
昔、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭を持つ悪龍が住んでいて、山崩れや洪水を起こして村人を苦しめ、子供を生贄にとることからこの地を「子死越(こしごえ)」と呼んでいました。
 あるとき、子死越前方の海上に何日にも渡って密雲が垂れ込め、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると今まで何も無かった海上に、一つの島が出来ていました。これが江ノ島です。
 天女の美しさに魅せられた龍は、結婚を申し込みますが、悪行が止むまではと断られました。以後、龍は悪行を止め、天女と結婚することができました。
 天女と結ばれてからの五頭龍は、生まれかわったように村人のために尽くしました。日照りの年には雨を降らせ、実りの秋には台風をはねかえし、津波が襲ったときには波にぶちあたって押し返しました。しかしその度に、五頭龍の体は衰えていったのです。
 ある日のこと、五頭龍は、妻である天女にむかって「わたしの命もやがて終わるでしょう。これからは、山となっていつまでもこの地をお守りしたい。」と言い残すと、対岸に去って山になったということです。
 これが、江ノ島の対岸にある現在の片瀬山(竜口山)で、江ノ島の天女(弁財天)を慕うようにいつまでも見つめていたということです。

五頭龍 その後 欽明十三年(五五二年)、村人達は山となった五頭龍大神を祀るために龍口山の龍の口に当たるところに社を建て、子死方明神や白髭明神と言いました。これが龍口明神社の発祥と伝えられています。
養老七年(七ニ三年)三月より九月まで江の島岩窟中にて、泰澄大師が神行修行中夢枕に現れた神々を彫刻し、弁財天は江島明神へ、玉依姫命(長さ五寸(約15cm))と五頭龍大神(同一尺(約30cm))の御木像を白鬚明神へ納めたといわれています(これが御神体です)。この時、龍口明神社と名付けられたと伝えられています。

この 五頭龍・・・ なんとなく 牛頭龍 とつながっている気がする。 (牛頭天王ね) 茅の輪くぐりもいつの時代からココでは行われるようになったか調べてはいませんが蘇民将来説話に出てきますし、境内社の 八坂神社は須佐之男命を祀り江戸時代は天王社と称した事からも、つながっている気がする。
(茅の輪くぐりに関してはその形状から第11章茅の輪に転載しますね。)



 ところで 家内の姉や子供達も近くなのに江の島神社 初めてだったみたい。
今度またゆっくりじっくり来てみたいですね。


 おしまい

神奈川県南部へび調査隊記
1日目 江島神社 (10.3.29)
2日目 平塚市博物館 (10.3.30)
3日目 県立大磯城山公園 大磯町郷土資料館 (10.3.31)






 
 
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