蛇の目ってなんぞや?!
 
へび調査隊記
 2011年08月23日
近畿地方調査
 まだ、大阪城天守閣の開館時間9:00まで、時間有り!! 京都のへび調査2件目行っちゃうよ~~。
 今回のへび調査隊の行動 (太字は”へび”と関係有り)
一日目
京都府京都市 大田神社 蛇の枕
京都府京都市 蛇塚古墳
大阪府大阪市 豊国神社
大坂城公園 天守閣
道頓堀周辺
二日目
大阪府大阪市 八立龍王大明神 と USJ
三日目
奈良県桜井市 三輪山 大神神社
桜井市埋蔵文化財センター と 桜井市芝運動公園
崇神天皇陵 と 今里の蛇巻
京都府京都市 蛇塚古墳

南側から見た蛇塚古墳
所在地 京都府京都市右京区太秦面影町
形状 前方後円墳 
大正時代に地権者により墳丘が削平されたため封土は失われ、後円部の石室のみが露出している。
規模 京都府最大の横穴式石室、墳丘長75m
築造年代 古墳時代後期末(6世紀末から7世紀頃)
埋葬施設 横穴式石室
史跡指定 国の史跡(1977年5月4日指定)
地図
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*上記案内は調査当時のものです。お出かけ前に電話等で確認の上お伺いください。
 


 
北から見た蛇塚古墳
西から 中心 蛇塚古墳 東から
南側から 南東から


玄室





感想
 
 古墳時代後期のの築造とされ、現存する京都府の前方後円墳としては最後期に属する。被葬者は不明であるが、秦氏一族の首長クラスの人物ではないかと考えられており、被葬者を秦河勝とみる説もある。
 
 地名も太秦(うずまさ)で、太秦といえば松竹京都映画撮影所で有名な場所だ。

 被葬者が秦氏と推測されるのも、太秦の”秦”であることと、古来から京都に住みついた秦氏が、すぐれた土木技術や機織り技術をもつ渡来系の一族で、桓武天皇による京都への遷都には秦氏の財力でバックアップするほど力があったからである。
 
 「蛇塚」の名の由来について、石室内に蛇が棲んでいたことから名付けられたと案内板にもあるが、 ”へび調査隊”のわたくしはそんな簡単な理由で名前がつけられたとは到底思わない。
 これを編集している2012年夏、秦氏つながりで、神奈川県の秦野市を調査してきた。と言ってもちょっと見てきただけですが・・・・。
 
 実は神奈川県の秦野市にも蛇塚という地名がある。 そこに住む人に聞くと「蛇がいっぱいいたからじゃない?」という感じで、「国道246を作るときに蛇塚と言われる山のあたりを切り拓いたが、古墳や塚といった感じではない。」と言うのだ。
 でもなにかしら関連があると思うのです。
 
 もう一箇所”蛇久保”という地名があり、”蛇窪川”も歩いてきた。
 その”蛇久保””蛇窪川”の流れる南側も同じく秦野市で秦野市鶴巻”鶴巻温泉”という温泉街まである。
 ”鶴巻”が何?と言われそうですが、 ”つるまき”とは”弦巻(つるまき)”であり、”蛇の目(じゃのめ)”なのである。

 詳しくは 当HPの”蛇の目って”と『弦巻』を見ていただきたいが 今でいうミシンのボビンを日本語で”弦巻”。”弦巻”のような同心円状のモノを”蛇の目(じゃのめ)”といい蛇の目ミシン工業の名前の由来はここにある。

 もう一度 整理してみると・・・。

京都 神奈川
太秦(うずまさ) 鶴巻(つるまき)
蛇塚 蛇塚
秦氏 秦野市
 機織り技術をもつ渡来系の一族という点でも一致すると思っている。
 
 ”へび民族(へび好き)”の可能性大なのだ!!

 そして、今回調査した”蛇塚古墳”。

 周囲が住宅に囲まれて、車一台が通れる程度に古墳の周辺に密集している。

 もともと京都最大級という前方後円墳跡であり周りを削られてしまっているものという。
 京都市右京区の嵯峨・太秦地区には他にも数多くの古墳があったらしい。
 それらが消失されてきた中でも、この”蛇塚古墳”は、無くしてなるものかといった、
 周辺住民に守られているよな、意志のようなものを感じるのである。
 手入れされている植木も二階の窓から見たら坪庭といった趣さえも感じそうである。

 このように住宅街の中にぽつんと存在する”蛇塚古墳”を見たときは「ナニコレ!!」と口に出てしまったが、なかなか素晴らしい史跡を見学できたと充実感に包まれるのであった。

 おしまい




 
 
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